『デュルケム「自殺論」を読む』 by  宮島喬

デュルケム「自殺論」を読む
宮島喬
岩波書店 岩波セミナーブックス
1989年4月20日 第一刷発行

 

フランスの社会学者、エミール・デュルケム(1858年4月15日 - 1917年11月15日)の著書を読んでみようかと思ったのだが、難しそうなのでその解説本ともいえる本書を読んでみた。

 

1989年の本なので、なかなか、古めかしい。
図書館で借りたのだけれど、「市内一冊」というシールが貼ってあり、かつ「書庫」の本だった。古書の風情がある。。

 

目次
第一章 デュルケム  人間・社会観・問題
第二章 自殺研究の前提と方法
第三章 過去の自殺研究の批判と乗り越え
第四章 自己本位的自殺と個人主義の問題
第五章 アノミーと現代の自殺
第六章 近代型自殺とその社会心
第七章 自殺研究と逸脱論
第八章 デュルケムの現代社会批判
付録 質疑と応答


「自殺論」とはいうのだけれど、なにか特定の自殺の原因を探ろう、という本ではなく、社会の変化と自殺の増加についてデュルケムが考察した本。それをもとに、宮島さんが1987年11月18日~12月16日まで、毎週水曜日、計五回にわたって岩波市民セミナー「デュルケム社会学と現代 『自殺論』を中心として」という講義を行った。その講義記録をまとめたもの。

 

宮島さんは、1940年生まれ。東京大学大学院社会科学研究科博士課程中退。お茶の水大学教授。社会学、 特にフランス社会学専攻。というかたらしい。

『自殺論』が書かれた時代背景として、19世紀後半にヨーロッパで自殺が増大していた。それを社会の仕組みの変化とどう関係しているのか、というのを語っているデュルケムの本を、宮島さんの視点で解説している感じ。語り口調なので、ちょっと難しい課題ではあるけれど、なかなか読みやすい。

ヨーロッパの社会変化の勉強になった。

 

やはり、フランス革命の流れ、カトリックからプロテスタントへの流れが時代背景になっている。カトリックの衰退は、宗教が個人主義や人々の自由への希求と相容れないものとしていた。それと同時に、精神的、道徳的な空白状態が市民社会の中に生まれている、ということをデュルケムは問題視した。
社会の構造が変化し、個人は、より自立が求められるようになり、その一方で自殺が増えてしまった。デュルケムとしては社会改革が必要だと思って『自殺論』を書いたのだろう、というのが宮島さんの解釈。
また、1859年にダーウィンの『種の起源が発表され、進化論の中心がいわゆる自然選択であり、適者生存から優勢思想「社会ダーウィニズム」となり、社会的に人に対して優劣をつける原理となっていたことも、影響しているという。

 

人は、神が作ったのではない、ということがどれほどのパラダイムチェンジだったのか。『種の起源』、歴史的、センセーショナルな出来事だったわけだ。

 

デュルケム自身が、学生時代から親しかった友人を自殺によって失っている。ずっと、文通を続けていた友人が、明らかに自殺に見えるような死に方をした。それが、デュルケムが自殺に関心をもったきっかけだったのだろう、と書かれている。
わかる。そういう気持ち。
納得のいかない友人の死。友人を死に追いやったモノはなんであったのか?それから逃げるのではなく、とことん向き合ったのだろう。

 

デュルケムは、自殺の定義、というものを、あれこれ論じている。そして、デュルケムにとっての自殺は、
死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じ得ることを予知していた場合を全て自殺と名付ける」と。
直接、銃で頭を撃つことだけでなく、食べることを拒否して衰弱死するのも自殺の一つ、、と。

あんまり、自殺の定義なんて考えたことがなかったけれど、すごく危険な冒険も、その先に死がある確率が高いのであれば、文字通り、「自殺行為」なのかもしれない。ただ、本人はその先に死を期待していたわけではないのであれば、、、死なないと思っていたのであれば、自殺ではない。冒険死、事故死。死んでしまえば、遺書でもなければ、本人に自殺だったのか?と聴くこともできないので、自殺の研究とは、、、、難しいのだろう。

 

私には、ユダヤ教カトリックプロテスタント、それぞれの人々の生活がどのようなものであったのかは、よくわからないが、本書を読むと教会を大事にする人たちほど、集団としての連帯性がつよくなり、教会よりも聖書に軸をおくプロテスタントのほうが個人が個人として独立、あるいは孤立しやすくなるのではないか、という話がわかるような気がしてくる。デュルケムは、人々の信じる宗教の教義内容によるのではなく、信仰行動の特徴が、社会構造をつくっていく、としている。

 

宗教と信仰行動という点で、宮島さんはマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』についても言及している。マックス・ウェーバーも、宗教的な要因を考える時、教義内容よりも人々の行動への影響を考えることが大事と言っている。
プロテスタントの、各人が自分で聖書を手にして信仰を自分で解釈する、という実践は、より個人主義になっていった、と。

カトリックも、プロテスタントも、教義としては自殺を禁じている。でも、どちらにも自殺者はいる。そして、宗教でみれば、ユダヤ教カトリックプロテスタント、と自殺率は高まる。
デュルケムは、だからと言って個人主義プロテスタントがいけないといってるのではなく、孤立した不安定な個人となっていることが問題だといっている。常軌を逸した個人主義が自殺を増加させているのではないか、という問題意識だった。だからといって、伝統的カトリシズムの復活は時代錯誤であり、今の時代にあったなにかが必要なのではないか、と。


現代にも通じる考え方だと思う。
孤立。
宗教に限らず、社会構造の変化から孤立した人が増えることは、直感的に危険な感じがある。人間は社会的動物だ。。。

 

自殺の種類をいくつかに分類して解析している。
集団本位的自殺というのは、昔の日本でいう切腹みたいな、集団として死を奨励するもの。
自己本位的自殺というのは、集団所属感の欠如により、人間関係の悩みに原因があるもの。
アノミー的自殺というのは、思い通りにならない自分への嫌悪、欲求不満に原因があるもの。

アノミーという言葉は、アノモス、神が不在、カオスということ。

 

社会学の研究として、アノミーがもたらす自殺の危険について、デュルケムはさらに深く言及している。より自己中心になっているアノミーの世界。


社会の変化、上昇志向、物質的欲求がたかまって、求める理想が高くなる。自分への理想が高くなり、あるべき自己イメージと本当の自分が乖離するほど、アイデンティティーの危機となり、自殺につながるのではないか、と。アノミーにおける欲望を病理とみた。アノミーの中におかれた欲求は、自己とは乖離して、その欲求はいつも裏切られる。疎外されている。
自殺には関係しないけれど、似たような指摘に、マルクスの「疎外」がある、という。
デュルケムの疎外は、私的な欲求生活における、疎外。

 

疎外と孤立。

社会構造から生じる疎外。
社会構造から生じる孤立。
同じものかもしれない。


自己本位的自殺は、人間関係的な文脈で生じる。
アノミー的自殺は、自己イメージあるいは自己像をめぐる葛藤から生じる。

どちらも、、、苦しいだろうな。


宮島さんは、デュルケムの考察した時代を、日本の高度成長期における社会構造変化と重ねてみている。
「進歩」とか「繁栄」の蔭にかくされて進行する、人間の問題があるのではないか、と。

宮島さんは、豊かさの中に人間の危機をみたのかもしれない。

2022年のなか、豊かさとはちがう、やはりなにか社会構造変化に隠された危機はあるのだろう、、、という気がする。

経済が上向きでも下向きでも、人々は「物質的充足」とは別に、「心の充足」を求め続けているのではないだろうか。
表面的に見えているモノの下に、もっともっと、、、人間的な何かが、いつの時代もかわらず、ずーーっとあるような気がする。


面白いのは、19~20世紀に、すでに「進歩」を金科玉条とすることに疑問を投げかけられていた、ということだ。

 

過去に戻ろうというのではなく、進化は続けるけれどその中に忘れてはいけない何かもある。強すぎる結びつきは、他者排斥につながりかねないけれど、結びつきの弱さも社会に脆さをもたらす。

 

『生き心地の良い町』のような、うまい、紐帯。中庸。バランス。

megureca.hatenablog.com

 

何事も、バランス、と言ってしまえばそれまでだけど、やはり、バランスって大切なんだと思う。

 

人は、なんで、自殺しちゃうのかなぁ。

自殺してしまったことを責めたりしない。

でも、やっぱり、悲しい。

どんな人であれ、やっぱり、自殺はしてほしくないな、と思う。

 

自殺ゼロの社会を作りたい、と思う。

何ができるかは、わからないけれど。

と、そこにはまりすぎても、私がバランスを崩すといけないので、心の片隅でいつも思っている。

 

自殺はしないでください。

だれも、自殺はしないでください。

 

 

『デュルケム「自殺論」を読む』