禅の言葉: 無と放心、理と事

今朝、教えていただいた禅の言葉。

無と放心 理と事


坐禅で、無になるというが、無を突き抜けると放心、心を放つ、という働きになってくる。

 

禅の言葉で、「理(り)と事(じ)」という言葉がある。
「理」というのは、道理のことで一つの心理。
その働き、現実の働きを「事」という。

 

江戸時代初期の徳川幕府・剣道指南役だった柳生但馬守へ、沢庵禅師が禅の心を指導した言葉をまとめた書簡集・「不動智神妙録」にある言葉をひとつ。


剣を構えて、心を相手に置けば相手に心を取られ、
心を自分の剣に置けば、そこに心を取られ、
目に置けば目にとられ、足に置けば足にとられ、
心が止まるとそこに意識が固まって自由度を欠き、
相手に一本取られてしまう。


「放心」、心はどこにも置かず、
すべてに働くように、のびやかにしておくこと。
こころを放れる。

 

坐禅では、丹田に力をいれて、呼吸に集中する、と言われるが、集中の先、集中を突き抜けたところに、集中をやめて、心を全体に広げるという働きが必要、ということ。
 
理(無とか空というこころの道理・精神世界)は、事(現実の働き=技)となって出なければ、本物ではない。
体と用との関係でもある。
「無」の働きはこころを止めない「放心」が大事。  
 
そうなると、
間髪を容れず: 人の打ちこんできた太刀に心を止めない
石火の機: こころを止めないから早い
 となる。

 


「思はじと思うも物を思ふなり、思はじとだに思はじやきみ」
 
急水上に胡藘子(ころす=ひょうたん)を打つ、念々不停留。


流れの急な川、滝のしたにひょうたんを置くと、ひょうたんは流れにそってぱっぱぱっぱと転換する。そのような、心の状態。一つ一つの念にこだわらないということが、働きとして大事。

 

う~~ん、今日の言葉は、なんだか上級編、って感じだ。

ただ、無になれ、ではなくて無の先放心になれ、と。

 

時がたつのも忘れるくらい、無になると放心するのか。。。

よくわからない。

けど、わからないなりに、今日も坐ってみる。

 

継続は力なり、っていうからね。

続けてみよう。

何事も。