禅の言葉: 廓然無聖(かくねんむしょう) 不識(ふしき)

今週教えていただいた禅の言葉。

ちょっと、よくわからなかったのだけど、覚書。

 

廓然無聖(かくねんむしょう) 不識(ふしき)
碧巌録(へきがんろく)第一則)

 

これまでにも何度かMegurecaで覚書している『碧巌録』(へきがんろく:中国の仏教書であり禅宗の語録)から。


梁(りょう)の武帝達磨大師に問う、如何なるか是れ 聖諦(しょうだい)第一義、
磨(ま)云く、廓然無聖(かくねんむしょう)、
帝(てい)云く、朕(ちん)に対する者は誰そ、
磨云く、不識(ふしき)
帝(てい)契(かな)わず、遂に江(こう)を渡り、少林に至って面壁(めんぺき)九年(くねん)

 

春秋時代、仏教に詳しい梁の武帝が、インドから中国に禅を伝えに来ていた達磨大師に会って、
「如何なるか是れ 聖諦(しょうだい)第一義」と聞いた。

聖諦第一義の「聖諦」とは、真諦(しんたい)、俗諦(ぞくたい)の二諦を越えたところ。

真諦の「真」というのは、空、平等、正位、主観、本、体
俗諦の「俗」というのは、色、差別、偏位、客観、相、用

それぞれ、二元的な味方をする双方の両方、空即是色、それを越えたところが「聖諦」。
「聖諦」が、第一義なのである、と。

それはどういうことなのか?ときいた。

 

達磨大師は、
廓然無聖(かくねんむしょう)」と答えた。

「廓然」とは、朗らかで、明々、了々、からっと晴れ渡った心境のこと。心が大空のように晴れて、わだかまりがなく広いさま。
坐禅をやると、無念無聖になって、あかるい状態になる。
「無聖」とは、聖も超越したところ。
なんにもない、、超越したもの。

 

それに対して、帝は、
「朕(ちん)に対する者は誰そ」と聞いた。
なにもないなら、今、目の前にいる達磨大師は、だれなんだ?と。

 

すると、達磨大師は、
「不識(ふしき)」
と答えた。

「不識」とは、識別を越えている、論理と知識を越えている、ということ。


なんだか、よくわからない問答なのだけれど、

真理の核心は何なのか?と聞かれて、達磨さんは朗らかで空っぽなものと応えた。
じゃぁ、聖であるはずのお前さんは何者なんだ?といわれて、そんなの人間にわかるもんじゃない。

って、そんな感じ??

 

人間の理論で、聖なるものを考えても、分かりっこない。

頭で一生懸命考えるより、無心になって空っぽになれば、発想も広がる、ってことか???

 

なんだか、難しかった。

しばらく、考えてみたのだけれど、やっぱり、難しかった。

 

私なりに解釈すれば、ブルースリーか?
考えるな、感じろ!

Don’t think! Feel!

 

目の前のものにとらわれるな。

という教えともいえる。

 

目の前のことに躓いて、足元ばかり見ていると、空に広がる未来が見えなくなる。

顔をあげて歩こう。

 

2022年6月になって、徐々にコロナ前の生活が戻ってくる中、なんだか失われた2年間であったような気もしなくもない。

あれ?こんなんでよかったんだっけ?

もっと、あれもこれも、やらなきゃいけなかったんじゃない?

あれも、これも、できていない。

あぁ、2年を無駄にしてしまったのかも。

と、思い悩んでも過ぎてしまった時間が取り返せない。

 

毎朝、一日が新しく始まるのだから、

毎日、新し気持ちで、仕切り直そう。

そう開き直れるのが、無宗教の良いところかもしれない。

 

神への誓いではない。

自分自身への誓い。

 

とりあえず、後ろを振り返っても仕方がない。

前を向いて歩こう。

一日5分の積み重ねも、1年続ければ、1825分。30時間。

継続は力なり、を信じて。

 

坐禅も、勉強も。

心の安定のために。

 

焦らない、あきらめない、人と比べない。

それでいい。

 

難しく考えなくていい。

今日、できることをがんばろう。