『翻訳教室』 by 柴田元幸

『翻訳教室』
柴田元幸
新書館
2006年3月5日

 

佐藤優さんの『知の教室』で、米光一成さんが薦めていた本。

megureca.hatenablog.com


翻訳、とついているので、興味を持った。
図書館で借りてみた。

本書は、2004年10月から2005年1月にかけて東京大学文学部で行った授業「西洋近代学近代文学演習 第一部 翻訳演習」の内容を文字化したもの。
9つの課題作品を翻訳し、柴田教授と生徒の質疑応答がまとめられている本、と言っていい。

著者の柴田さんは、1954年東京生まれ。東京大学教授専攻はアメリカ文学。翻訳家としてアメリカ現代作家の名訳で知られる。村上春樹との共著、『翻訳夜話』などもある。

課題となった作品は、柴田さんが得意とするアメリカ文学中心だけれど、村上春樹の作品をJay Rubirが英訳したものも含まれる。そして、授業に村上春樹が登場する!というイベント?特別授業の様子も含まれる。

たしかに、これは、授業の書き起こしだ。東大生の質問が含まれていることで、学生の疑問として読者の疑問も解消されていく感じが、読みやすい。
そして、そうか、翻訳家はこんなに細かいことにこだわって日本語にしていたのか、と感心しきり、、、、だった。

 

2004年の授業だから、村上春樹の作品についての話題も、そのころまでの作品についてが語られる。いまより20歳弱も若い時の発言だから、いまでは違うことをいうかもしれないけれど、村上春樹の話も面白い。

ちなみに、私は大学生の時は、村上春樹が大好きだった。だから、村上春樹が翻訳した本も読んだ。正直、当時の私にはフィッツジェラルドのどこが面白いのかよくわからないけれど、分かった風に友人と話をしていたものだ。バーボンやジャズに興味を持ったのも、村上春樹を読んでいたから。でも、『ノルウェイの森』のあたりから、なんだか重く感じるようになって、新刊だからと言って飛びついて買わなくなった。好きだけど、別に、春樹ストではない。ま、村上春樹好きだった彼と別れたから、というのもあるかもしれない。。。

村上春樹は、翻訳作品も多いのだが、自分の作品を書いていくと、翻訳もどんどんやりたくなるのだそうだ。英語力や翻訳技術は、やればやるほど技術があがってくる。そうすると、もっともっとやりたくなるのだと。それを運動と筋肉の相関関係に似ていると言っている。
まぁ、かれは、マラソン好きだから。マラソンがどんどん走れるようになるのと同じ感覚なのだろう。

ちょっと、わかる。英語の勉強をしていて、すらすら読めるようになってくると、楽しくて、もっとやりたくなる。次元は違うかもしれないけれど、やっぱり続けるとちょっとずつでも上達するもんだ

 そして、翻訳をするということは、自分の作品を書く間の待ち時間のようなものでもある、と。いったん、頭に浮かんだ場面は、村上さんはすぐに作品にするわけではなく、温めておくそうだ。その間に、翻訳をする。するとある場面を描きたいと思ったときから1,2年して物語が次々に湧いてくることがあるそうだ。

村上さんは、フィッツジェラルド

「人と違うことを語りたかったら、人と違う言葉をつかえ」

という娘へ向けた言葉を引用して、出会った言葉を使う事をすすめている。辞書にのっているけれど使ったこともないような言葉。そういう言葉に出会ったら使ってみるのだ、と。
なるほど。

村上春樹の作品は、『かえるくん、東京を救う』を英訳したJay Rubirの英文が課題になっている。「かえるくん、東京を救う」って、読んだことあるような気もするのだが、よく覚えていなかった。
男が自宅に帰ったら、いきなりカエルがいて、お茶をもてなしてくれたりして、、、という話。課題文は途中までなので、結末は書かれていない。

『神の子供たちはみな踊る』(新潮社 2000)からの引用と書かれていたので、調べてみた。

ネタバレしちゃうと、かえるくんは、片桐という男の家に上がり込んでいて、一緒に、都市直下型大地震が来るのを阻止するというお話。彼が働く信用金庫を震源とした直下型地震がくるから、それを一緒に阻止しよう。それには、そこに潜んでいるミミズと闘う必要があるんだ、と。合意する片桐。しかし、地震が予測される2/18の前の日、かえるくんと信用金庫の地下で待ち合わせをしていたのに、片桐は狙撃されて病院に担ぎ込まれ、かえるくんとの約束を果たせない。片桐が病院のベッドで目覚めると、かえるくんが予告した地震の時間は過ぎていたけれど、地震も起きていなかった。病室にあわられたかえるくんに、約束を守れなかったことをあやまると、かえるくんは「きみはちゃんと僕を応援して助けてくれたよ。だからみみずは退治してやった。」と。そんなお話。

 

と、話を『翻訳教室』に戻そう。

 

日本語→ 英語 → 日本語、にしてみると、翻訳によって随分と違う雰囲気の話になっていくことがよくわかる。

かえるを、frog、Frog、Mr. Frog、、、どう訳すのか。
teapotをティーポットと訳すのか、急須と訳すのか。

日本人なら、ティーポットと急須では全く違う映像が頭に浮かぶだろう。

お茶をすする、と言われても、ティーポットから入れたお茶ならティーカップだろうけれど、急須から注いだお茶なら湯呑。。。


文学の翻訳というのは、単に言葉を変換するだけでなく、やっぱり、その言語で物語を語っていかなくてはいけない。技術翻訳とはことなるスキルが必要ってことだ。

村上作品を英訳したJayが授業に参加した場面があり、そこで彼は、
翻訳とは科学的なものじゃない。主観が入る。それが入らないと人間がやる作業ではない。」と言っている。
なるほど。
技術翻訳なら、主観より客観をだいじにするからコンピュータによる自動翻訳でも理解できるけれど、文学の翻訳は、主観があってよいのだ。主観がないと文学にはならない、ということなんだろう。

だから、同じ原作でも、いくつもの翻訳本が存在する。元の作品の言葉は変わらなくても、時代によって使われる言葉が変わってくれば、それに合わせて翻訳も変わっていく。
古典の現代語訳も、だから次々と色々な人が現代語訳をつくったりするのだろう。


英語では、代名詞の I, You, He. She なども訳すのが難しい。
Iは、私、おいら、オレ、僕、わたし、あたし、、、で、読者が想像する人物像が随分かわる。日本語の面白いところだ。

課題となった作品のなかでも、「オレたち」とすべきか、「僕ら」とすべきか、といった議論が生徒と教授の間で交わされる。

 

ほかに、句読点をうつべきかどうか、とか、文のうしろから訳すか、前から訳すか、とか。

 

Youは訳すか、訳さないか。

通訳でも、「You」は「あなた」と直訳するなとよく言われる。

Sit at the tableは、机に座る、とするのか、「食卓についた」、でいいのか。

But I had no choiceは、選択肢がなかった、とするのか、「しかたがない」、とするのか。

 

あぁ、翻訳者はそんなことにもこだわっていたのか、、と。

当然、~の~の~の、みたいな、リズムの悪いものは嫌われるけれど、

英語でもわざと、

A and B and C and Dと、本来ならカンマ(,)とすべきところをわざとandを連続させていたりするので、そういう時は、~も~も~も~も、、とすべきだろう、、とか。

 

面白いね、言葉って。

しかも、文学は主観だ。

 

授業では、翻訳をするときにはその国の文化背景を知っていないと難しい訳もあるし、あるいは文章に込められたまた別の文書をしらないと、深い意味が取れないこともあるという。

Lucust というのは、バッタ、だけれど、でてきた文章の中では旧約聖書出エジプト記にあるイナゴがエジプト人を襲ったという物語を暗喩しているので、ここでは「イナゴ」と訳すべき、とか。海外文学を読むのには、宗教、キリスト教への理解がないと会話の裏に秘められた深い意味が分からないこともある。やっぱり、世界で最も多くの人に読まれている書籍である『聖書』は、ある程度理解できていた方がいい。

 

前置詞のもつ、深い意味とか。
たとえば、

His wife walked out on him.

という分のonは、彼に不利になるように、という意味になるという。
そうか、そういう使い方があったんだ。
勉強になった。

 

Probablyは、70%以上の確立で起こりそうで、「おそらく、、、」くらい。
Perhapsは、30%以上の確立で起こりそう。「かもしれない、、、」くらい。

こういうのは、覚えるというより、使っているうちに体に染みつくものなのだろう。。。

子供が、「みんなもってるもん」といっておもちゃを欲しがる時の「みんな」は、決して「みんな」ではない、、、みたいな。

 

これは、英語翻訳の勉強の本と言っていいのだろうか?
課題文に興味を惹かれるところもあるので、文学の紹介の本、ともいえる。

そして、ここに出てきた作品の一部をよみながら、海外文学って、読み慣れていないな、、、とつくづく思った。SFなら海外の作品もよく読むけれど、文学はまだまだ読みの経験が浅い。

 

課題の一つに、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』というのがでてきた。1970~1980年代のイタリアの作家。ポストモダン文学の二大傑作のひとつとして紹介されていた。柴田さん曰く、もう一つの傑作は、ガルシア=マルケスの『百年の孤独

あぁ、これがポストモダン文学か、という感じ。イタロ・カルヴィーノの作品も読んでみたくなった。

 

翻訳の本だけど、また、海外の文学という新しい興味を持ってしまった。

生きている間に読める本なんて、ほんとにほんとに一握りどころか一つまみだな、と思う。

 

だからこそ、色々読んで、面白ければ読む、違うと思ったら読むのをやめる、って大事。

読書は、通読すればいいというものではない。

タイミングっていうのもある。

心に響くタイミングが。

 

翻訳の勉強ということだけでなく、面白い本だった。

英語の勉強をしつつ、読書をむざぼっている私には出会うべくして出会う本だった気がする。

 

気になった本は、読んでみる、って大事。

 

『翻訳教室』