『知の光を求めて 一哲学者の歩んだ道』 by  今道友信

知の光を求めて
一哲学者の歩んだ道
今道友信
中央公論社
2000年2月25日

 

とある会でご一緒することのある元内閣府官房長の紳士が、こういう先輩がいるんだ、と言って紹介してくださったのが、本書の著者、今道友信さんだった。

知り合いの彼も、いくつもの著書があるのだけれど、私には難しくて、なかなか読めていない。いつも、鋭く、本質的なことをいわれるので、尊敬する方。その方が言及されうのは古典が多いのだけれど、今道さんは1922年生まれのかたなので、古典、、、とまではいかない。

どんな人なのか興味をもったので、図書館で名前を検索してみた。古い著書がいくつもでてきたけれど、タイトルに惹かれて、本書を借りてみた。

『知の光を求めて』と、タイトルが美しいではないか。まさに、哲学者っぽい。

 

著者の今道さんは、1922年東京生まれ。1948年、東京大学文学部哲学科卒業。パリ大学、ヴェルツブルク大学等の講師を経て、1970年より東大教授。1982年退官。同年、哲学美学比較研究国際センターを設立。英和大学教授、東京大学名誉教授、国際形而上学会会長、国際大学学会終身会員、エコエティカ国際会議議長などを歴任。

つまりは、哲学者である。

そんな、今道さんのバイオグラフィーのような一冊だった。


1922年生まれというのだから、20代で終戦を迎えた世代。あれは、終戦ではなく敗戦だった、とあえて言っている。

子供の時から哲学的なことに興味はあったのだけれど、当時の日本は父権が強く、子供が何を学ぶのかだって、父親の許可が必要だった。哲学なんかでは食べていけないとおもっていた父親は、なんとか、学問の道をあきらめさせようとして、様々な知り合いの学者のところへ会いに行かせ、かれらに友信は学問には向かない、と言わせようとしたのだが、、どの人も、「学問にすすむ以外に適正はない」というようなことをいう。
結果、旧制一高から、東大で哲学の道をめざすことになる。

 

当時の哲学と言えば、西田幾多郎をはじめとする、京大が主流だった。でも、京大の先生の講義をきいていて、戦時中だったこともあり、「天皇」が絶対であるかのような講義にこれは違う、と思って、東大へ行くことをきめたのだそうだ。

幸か不幸か、徴兵では不合格で、戦争にはいかなかった。学生運動が盛んな時期になっても、自分はそんなことよりも哲学に興味があった。ただ、学生運動にはしる仲間をみていて、「同質性に基づく仲間意識」に違和感をおもったそうだ。今の日本も、かわっていないかもしれない。。。

 

学生時代、海外で発見されたペニシリンに対して英語の名前はけしからんから日本名を考えろ、と言われて、「碧素」と名づけて褒められたこと、それは角田房子さんの『碧素物語』に実名で描かれているそうだ。碧素なんて、初めて聞いた、、、。

東大時代には、ヘーゲル『哲学歴史』『精神現象学』、プラトンソクラテスの弁明』、カント『純粋理性批判』、ハイデガー存在と時間』、スピノザ『エティカ』などなど、まさに千本ノックのように、読み漁ったそうだ。

そして、空襲で実家が燃えてしまう。。。書籍も、これまで書き留めたノートも、何もかもが、燃え尽きてしまった。ものは、無くなってしまうのだ。
ちなみに、アメリカは図書館や大学といった文化施設は攻撃しなかったそうだ。でも、自宅は燃えてしまった。。。

 

ついでに関係ないけれど、今、銀座にあるサッポロビールのライオンの建物も、東京空襲でも攻撃されなかったことで有名だ。アメリカ兵がビールを飲むところが無くなると困るから攻撃しなかった、、、というのがサッポロビールの人が語る逸話なのだけど、ほんとかな?

 

晩年の西田幾多郎さんに、鎌倉の自宅でお会いしたこともあると。西田幾多郎といえば、『善の研究』だが、プラトンアリストテレスアウグスティヌスを尊敬していた。
そして、「哲学者は、根拠をもった予言者」とかたった。
だから、今道さんは、「根拠をもった予言者になろう」とおもったそうだ。

だが、戦後の大学教育は、根拠なき変更がおおくなされた。終戦でなく、敗戦だったのだ。
そして「学歴社会ではなく学力社会が大事」「人間性を高める教育が大事」という思想にいたる。
この 「学歴社会ではなく学力社会が大事」「人間性を高める教育が大事」は、私の知り合いの紳士がよく話されるポリシーと一致している。

色々迷いながらも、哲学を続けてこられた一つに、恩師の言葉があるという。
「小さな完成より、大きな未完成を」と。
たとえ完成できなくても、大きなテーマにとりくめばいい、という支援の言葉だった。
いい言葉だな、って思う。

 

「小さな完成より、大きな未完成」

人間なんて、もともと未完成なものだ。いいじゃない、未完成でも。小さな完成に慢心するより、大きな未完成で終わったほうが、きっと楽しい

 

今道さんは、もともとカトリックで、一時、修道院に行く。周りは、学問をあきらめて、そのまま宗教の道に進むのかとおもいきや、やっぱり修道士も違う、、、ということで学問の道へ帰ってくる。ただ、日本の大学にはもう彼を受け入れてくれる受け皿がなく、ご縁あってヨーロッパに行くことになる。そして、それがその後海外でも活躍されるようになるわけだ。ドイツに滞在していた時、来独する東大学長と現地大学教授との通訳をした今道さんは、そのときに、物理学者のオットー・ハーンと出会う。ハーンと言えば、ハイゼンベルクと一緒に、原子核分裂を研究し、原子爆弾の理論の基礎を作った人だ。「学産協同」が謳われていた時代にあって、大学の人間としての思想に同じものを感じたのだろう。ハーンとは、そのあとも交流が続く関係になったのだと。

megureca.hatenablog.com

ヨーロッパでは、また様々な本に出合い、勉強に没頭していくのだが、食べるものを買えないほどの貧乏を経験している。お腹がすくといけないので、ひたすら図書館で一日を過ごし、水をのんで空腹を耐える、、、そんな日々。そんな時、久しぶりにあった友達が、俺のうちに来いと誘う。そして、帰りに本を渡してくれる。「いいから、30ページから読め」と。次に図書館で会ったときに、本の話もしなきゃいけないし、、、と思って、疲労困憊ではあったけれど、30ページを開いてみた。するとそこには、「哲学をするなら、まずは食え」といって、100マルク紙幣が3枚挟んであった、、、と。なんという愛情。お金を渡せば友は受け取らない、それを分かっていて本に挟んで渡す、、、。なんと、、、。
おぉぉ、、、と、ちょっと、うるっとしてしまうエピソード。


そして、その後、今道さんの哲学が、世の中に認められるようになったのは1980年代になってからだという。60代、ということだろうか。それは、長い道だっただろう。。。
20世紀の哲学は、実存主義がブームで、ハイデガーの「世界的存在」が走りのように理解されている。でも、今道さん曰く、本当はハイデガーより前に、岡倉天心が『茶の心』のなかで、「Being in the world」と言っていて、ハイデガーはそれをドイツ語にしたに過ぎないのだ、と。と、他にももともと日本人の思想にあったものが、西洋の言葉で言われたことで西洋起源のように思われているものはたくさんある、、、と、詳細ははなさないけど、それが事実なんだ、、と、語っている。悔しかったのかな。

 

安部公房とか、遠藤周作とかが同時代の友人として登場している。あぁ、あの時代を生きた人の一人なんだ、、、と。

 

最後に、ご自身がある国際哲学会の基調講演での言葉を引用されている。
ミネルヴァの梟は夕暮れに飛ぶ。しかし私の考えではそれだけではありません。ミネルヴァの梟は夜大枝に座し、すべての人間に見えないものを予見し、すべての人間が惑いの沈黙に静まる中で、落ち着いた声で己の見るところを語るのです

未完でも、予兆でも、、大きな未完成に命を懸ける気迫が必要なこともある、と。そして、人々は光をもとめる。それは、知の光でなくてはいけない。自分の身体と同じように、魂も世話をしないといけない

技術としての哲学、都市の研究、技術、芸術、自然、、、色々考え続けたいのだと。

 

岡潔とちょっと似ているかも、って思った。
物理学者と哲学者って、似ているのかもしれない
自然をどこまでも追求するという共通性なのか?

そして、宗教から哲学へ、その流れも他の哲学者と共通している。

 

今道さんは、晩年には国際的に認められた哲学者となったわけでが、それまでのいきさつが物語になっていて、人の人生って本当になにがどう転ぶかわからないなぁ、、と言う気がした。まして、戦時中を生きた人だ。ままならないこともたくさんあっただろうに。空腹を水でしのぐなんて、私には考えられない、、、。

 

なんだか、ほんわか、優しい気持ちになれるような一冊だった。

なるほど、日本にはこういう哲学者もいたのか、と。

「小さな完成より、大きな未完成を」

うん、良い言葉だ。

いただき。

それでいこう。

 

Do it!

だね。

 

表紙のミネルヴァの梟も、かわいい。

古い本だけど、良い一冊だった。

 

『知の光を求めて 一哲学者の歩んだ道』