対決!日本史2
株式会社潮出版社
2021年8月5日 初版発行
前作の続き。
幕末から維新編。
表紙には、
"信念はあるか、
理想はあるか、
胸の底に秘めた怒りはあるか。
明治維新の功罪を見極めろ!"
と。
まえがきにある、安部さんの言葉が重い。
「こんな歴史教育をしているようでは、いつまでたっても日本はよくならない。」
前作に引き続き、これもまた面白い。
目次
第1章 ペリー来航とパラダイムチェンジ
第2章 「パクス・トクガワーナ」時代の終焉
第3章 江戸無血開城の奇跡
第4章 征韓論と西郷隆盛の限界
第5章 中央集権国家の成立
第6章 自由民権運動の展開
私が学校でならった明治維新は、「ザン切り頭、叩けば文明開化の音がする」って、日本が先進的に変化していった素晴らしい時代、かのようだった。
しかし、本書に限らないが、平成、令和になって出版されている本では、しばし、明治維新ばんざ~~い、と言っているようではだめだ、という論調がみられる。
多分、本当は、そうなんだろう。
鹿島さんの『ドーダの近代史』なんて、政治そのものが茶番劇のようだ、、、。
この本の解釈を私なりの一言でいうと、明治維新は良いこともあったけど、悪いこともたくさんあった、ということ。
明治維新でパスク・トクガワーナの戦争のない平和な時代から、再び重商主義に走りはじめ、欲が欲をよんで、日清戦争、日露戦争にすすんでいった。。。
伊藤博文は、私の記憶では1000円札の人(調べたら1986年で発行停止だった)であって、初代内閣総理大臣。でも、伊藤博文(長州藩)は、大久保利通(薩摩藩)らと同様に岩倉使節団のメンバーの一人であり、西郷隆盛とは違って、なんでもかんでも西洋の真似事に走った、と言えなくもない。。。伊藤博文なんて、最後はハルビン駅で韓国の民族主義運動家に狙撃されて死んでしまったのだ。人から恨まれることをした、、、と言えなくもない。
ちなみに、西郷どんが岩倉使節団に入らなかったのは、体調に問題があったかららしい。佐藤さんによると、なんでも、睾丸がスイカ大に腫れてしまう病気だったと、、、かわいそうに。。。で、途中、政治家は、痛風と痔には気を付けなくてはいけない、、、と言う話に発展している。。。
大政奉還後の政府は、薩長出身者で固められ、実は偏った政権だった。超派閥政治じゃないか。そんな風に学校でならった記憶はない。。。私の記憶がないのか、本当に教科書に書かれていなかったのかはわからないけど。
まぁ、とにかく偏ったメンバーで国を創っていこうとしたわけだ。イギリスのグラバーに、まんまと武器を買わせられ、国内で戦争まで起こして、、、。
長崎にはあるグラバー邸は、今でも観光名所であり、日本に偉大な貢献をした人かのような扱いだけど、グラバーにしてみればもともと武器商人であって、日本を良い国にしようなんて意図はなく、薩長をつかって幕府を傀儡にし、イギリスの属国にしようとしていただけだ、、というのが佐藤さんや安部さんのみたて。
たしかに、、、、。
やっぱり、私は、歴史を理解していなさすぎる。。。
アメリカの南北戦争が終わって、余った武器が日本に来て戊辰戦争が起こったのだという話はよく聞くけれど。
昨年、私は初めてグラバー邸に観光いって、きれ~~~~い、とか言って喜んでいた。。。ま、確かにきれいだったんだけどさ。。
明治維新のころをついつい美化してみてしまうのは、司馬遼太郎の影響もある、と。たしかに、『坂の上の雲』では、明治維新を成功させて近代国家として歩み出した日本、そしてそこで活躍した若者を美しく描いているし、日露戦争勝利は、ハッピーエンドへの道だ。
でも、本書の中では、日清戦争も日露戦争も、日本は勝ってはいけない戦争だったのだ、と。そこで負けていれば、第二次世界大戦のような失敗はなかったのではないか、と。。まぁ、教科書にはそうはかけないだろうけどねぇ。。。
歴史に、もしも、、、はないのだけれど、確かにそうかもしれない、、、と思う。
自信過剰、根性論、、、、戦略なし、、、ただの希望的観測。。。失敗の法則だ。
佐藤さんの沖縄人としての視線も勉強になる。沖縄は、もともとは琉球王国であり、かってに日本に併合されてしまったようなものだ、、、と。だから、大政奉還から何年、なんていう記念は沖縄人にはどうでもよくて、その流れで言うと、アメリカからの沖縄返還も、別に元の沖縄に戻ったわけでもないのだ、、と。。。
また、安部さんが浄土真宗の葬儀に出席したときに、浄土宗や浄土真宗は景教(キリスト教ネストリウス派)に似ていると感じだ、というはなしから、佐藤さんが、「親鸞はキリストをしっていたはずだ。」という、キリスト教徒の佐古純一郎と言う文芸批評家の言葉引用している。これまた、面白い視点だ。
親鸞と言えば、鎌倉時代に阿弥陀の救いを信じる心があれば誰でも往生できるといって浄土真宗(一向宗)を開いた人。ちなみに、「南無阿弥陀仏」は法然の浄土宗で、法然は親鸞の師匠だ。
もともと、キリスト教で使っている「懺悔」という言葉は、浄土真宗の「懺悔」から着ているのだという。浄土真宗にも懺悔があるらしい。
キリスト教も、浄土真宗も、イエス・キリストなり阿弥陀仏なりを媒介にしてあの世にアクセスしている、と。
まぁ、なるほど。
宗教って、そういうものか、、、と言う気もする。
本書の後半の方では、戦争のために時計が開発された(正確な時間がわからないと一斉攻撃ができないから)とか、奈良・吉野は廃仏毀釈がうまくいかなかったから今でも寺院が旅館として残っていたりするとか、今の生活につながっている歴史の話がでてくる。
時計が無ければ、定刻運航なんて物もなかっただろうし、残業なんて概念もなかったかもしれない。
今の時代は、常に歴史の延長戦にあるんだよなぁ、とつくづく思いながら読んでしまった。
他にも、結構、目からうろこ、、、の話が出てくる。
ざーーっと読んでしまったけれど、じっくり読みするとよい本だと思う。
図書館に返すまでに時間があるので、また読むかもしれない。
歴史は、後になって公開される文書によって、新たに一般に知られることがたくさんある。今朝の日経新聞の「春秋」に、香港返還のはなしがでていたのだが、そこに戦時中日本は香港を占領し、現地で戦争犯罪で訴求されて死刑になった日本人のことが書かれていた。え、香港も???と、、、、。戦時中に日本がしたこと、私はほんとに知らないのだな、と無知が怖くなる。国会図書館にいけば、様々な資料が見られるとのことだが、、、、そこまで追求してみる勇気?気力はない。
世の中、自分が知りえることは、ほんのほんのちっぽけなことであり、かつ、正確に理解できることはその中の一部でしかないのだよな、、、と思う。
何を学ぶか、何を読むか、その戦略なしに手当たり次第に本を読むより、ある程度のテーマを持った方がよいのだな、と最近感じている。
今日から7月。
フーテン、3年目に入る。
でも、今日から新しい仕事も始める。
人生のフーテンであるには違いないのだけれど、
また、心新たにがんばろう。
本を読むなら意思をもって。
つまらなければ読まない勇気を。