『グローバリズムという妄想 』 by ジョン・グレイ

グローバリズムという妄想
ジョン・グレイ
石塚雅彦 訳
日本経済新聞社
1999年6月25日 一版印刷
原本:False Dawn 1998

 

グローバリゼーションとか、グローバルと言うキーワードの本として、ずっと気になっていた。2022年5月に読んだ『猫に学ぶ  いかに良く生きるか』の著者だったということに気が付き、図書館で借りてみた。

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著者のジョン・グレイは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。専門は欧州思想史。The gurdianや The Times Literary Supplmentなどに常連の寄稿者、と。


本の説明には、
”世界を席巻するかに見えるアングロ・アメリカン市場主義こそ、価値の多元性を否定し、経済と社会を混乱に陥れる元凶だ!グローバリゼーションの虚妄と危険性を痛烈に批判し、欧米論壇で話題を呼んだ注目書、待望の邦訳。”

1999年の本なので、世の中の状況は今とはだいぶ違う。2001年9月11日以前。やはり、同時多発テロは、一つの転換点だったと思うので、それ以前、ということだ。読んでいて、未来予想図的な話は、いやいや、そうはなっていないとよ世の中は、、、ということもあれば、うん、やっぱりその流れだったね、、ということもある。アメリカの影響力、中国の影響力、ロシアの影響力、、、すべては、2022年の今、変わっている。
いずれにしても、著者は、新自由主義もグローバリゼーションも、人間を幸福にする物ではない、と言いたいようだ。

内容的には、不変といえる歴史の考察もあるし、そこから著者が導く思想もある。外れている未来予想図は、読んでいてもあまり頭に入ってこないので、結構分厚い本だけど、さらっと読み。

 

目次

1 『大転換』からグローバル自由市場への道程
2 国家が構築した自由市場
3 グローバリゼーションの虚実
4 新しいグレシャムの法則
5 アメリカとグローバル資本主義ユートピア
6 共産主義崩壊後のロシアのアナーキー資本主義
7 西欧の黄昏とアジア型資本主義の勃興
8 レッセフェール時代の終焉


言葉が、わからないものがあったので、覚書。

レッセフェール:本書の中では、「自由放任主義」と訳されている。「なすに任せよ」という意味で、フランスの経済学者グルネーの言葉だそうだ。

 

著者の自由市場への評価は、
アングロ・サクソン的な特異なもの。
・徹底的に個人主義的なもの
・実体は、国家権力が作り出したもの
自由主義は、安定性も民主主義も促進しない
というもの。
そして、グローバルな民主的資本主義は、世界共産主義と同じように実現不可能なのだ、としている。


本書の中で、時々日本が特異な国として取り上げられている。
アメリカ企業のようなカルチャーを取り入れることなく、発展したのが日本企業だと。例えば、企業の生産性のためにダウンサイジングや解雇をいとわない、というアメリカ企業のやり方は、日本はまったく取り入れてきていないし、この先も取り入れることは無いだろう、と言っている。
そして、それは文化の相違を反映するものであり、日本文化の特異性だと言っている。

 

ずっとその環境の中にいると、それが特異な環境だとはおもわないけれど、たしかに、欧米の真似をすることの多い日本だけれど、まったくその通りにはならない。目標管理制度とか、パーパス経営とか、、海外から取り入れたマネジメント手法は沢山あるけれど、やはり解雇、リストラ、、、というのは、日本企業では本当に本当に、、骨の折れることだし、だれも喜んでやる人はいない。もちろん、ゼロではないけれど、そこへの抵抗感、良心の呵責のようなものは、日本人には大きいのだろう。リストラする人もされる人も、かなりの心の負担を負うことになる。場合によってはトラウマ的な傷を残すことすらある。宗教観の違いなのだろうか。。。

 

著者は、それが日本の「和を重んじる」文化なのだ、と言っている。はて?かれの解釈が正しいのかはわからないけれど、知らず知らずに日本的文化として、「和」というのは、日本で育った日本人には、しみ込んでいるのかもしれない。いわゆる、DNAへの刷り込み、、かな。

 

著者は、世界が真に単一の市場になり、国民国家が衰退して多国籍企業がそれにとって代わるような世界は、、、実際には起こりえないと誰もが知っている、と言っている。それでも、社会の様々な場所で、グローバリゼーションが叫ばれる。ナショナリズムはおこりえないといっているのだが、実際には、世界はナショナリズム保護主義へと走った。

政治と経済は、本当に明日はどうなるかわからない。。。

 

グローバリズムの波と共に個人主義がはびこっている一つの現象として、年金積立の責任を個人に移すという方法が実行されている、というはなしがでてくる。たしかに、確定拠出型年金って、個人で責任とりなさいよね、ってことだ。福祉国家のふりをして制度を許可し、実態は個人の責任でよろしく、、、と。

 

調べてみると、アメリカの401kが出来たのは、1978年だった。それが日本版401k として導入されたのが、2001年。国は年金の面倒みきれないから、あとは自分でやってよね、、、という制度ともいえる。そして、今、401kとして確定拠出型年金、iDeCoを運用している人の多くは、海外マーケットの商品も運用しているのではないだろうか。金融の世界のグローバル化は、知らない間に身近にある。

個人的な事を言えば、私は、iDeCoのほぼ70%を海外の商品で運用している。利率30%近くで運用できている。一方、、、一応国内も、、、と思って持ち続けている国内のものはプラスマイナスゼロ付近をウロウロ。。。

 

個人で運用するようになって、海外マーケットが身近になったのは間違いない。
これも、グローバリゼーションの流れの一つともいえるのではないだろうか。。
そして、確かに、そうして資産運用ができる人と、その資金的余裕がない人とでは、格差は広がっていく・・・。

 

著者が繰りかえし述べているのは、結局、競争優位に立つためには、技術革新があってしかるべきであり、そうでない競争優位は、本質的にはかないもの、、、まさに幻想である、ということ。資本を動かすことによる収益も、技術革新・価値創造が伴わないものは、はかないもの、、、。確かにそうだ。資産運用なんて、実のところいつゼロになるかわからない。


『猫に学ぶ』で論じていることと、方向性は同じだ。

あくせく競い合うことに、何の価値があるのか?

人生とは気晴らし、、、。

 

江戸時代の日本についての一文がある。
ゼロ成長経済が繁栄と文明化された生活を完全に両立することを証明した」、と。

たしかに、パスク・トクガワーナって奇跡に近い戦争のない265年だったのだ。鎖国と言う国策により、貿易としては確かにゼロ成長だったかもしれない。でも、農民も町人も、結構幸せに暮らしていた。一日、数時間しか働かなくとも、豊に暮らしていた。最後の方は度々飢饉にみまわれたかもしれないけれど、文化も花開いた。

そして、明治維新から一気に西欧の真似をしようと走った。でも、日本らしいところはなくならなかった。だから、一度も植民地になることもなく、日本と言う国は今も続いている。。


グローバリゼーションの本なのだけれど、日本はなぜ日本だったのかな、ということに興味がむく一冊だった。 

 

全体に、批判的な視点で書かれているので、じっくり読むとちょっと疲れるかもしれない。さ~~~っと読み。

既に時代も変わっているし、それくらいでちょうどいい感じ。

気になっていた本を一冊読んだ、満足感があった。

 

本としては、『猫に学ぶ』の方が面白かったかな。

ま、でも、読んでよかった。

 

グローバリズムという妄想 』