今朝教えていただいた、禅の言葉
香厳上樹(きょうげんじょうじゅ)
「無門関 第五則」
無門関からの公案。茶室の掛け軸などにもなっている公案とのこと。
私は初めて聞いたけれど、なるほど、、、そうかもなぁ、と心に響く一言だった。
頭の中で論理を考えてもむずかしいのだけれど、まぁ、こういう言葉もあるということ、知っておくとよい、ということで教えていただいた。
香厳上樹
香厳(きょうげん)和尚云く、
人の樹に上がる如し。口に樹枝(じゅし)を銜(ふく)み、手に枝を攀(よ)じず、脚は樹を踏まず。
樹下に人有って祖師西来(そしさいらい)の意を問わんに、対(こた)へずんば即ち他の所問に違(そむ)く、若し(もし)対(こた)ふれば喪身失命(そうしんしつめい)せん。
正恁麼(しょういんも)の時、作麼生(そもさん)か対(こた)へん。
口語訳
人が、口で樹の枝にぶら下がっている。手は枝をつかんでおらず、足も樹に触れていない。口だけで樹にぶら下がっている状態。
その状態の時に、その樹の下に別の人がやって来て、祖師西来意(そしさいらいのい)(仏法ぎりぎりの真理)を問い掛けた時、もし答えなければ、問うた人の要求に応えないことになって失礼・不誠実な事態になる。もし答えたならば、落下して命を失ってしまう。このような時、人はどう答えたらよいか...どうするのか?
*祖師(そし)とは、達磨大師のこと。達磨大師がやってきた意味はどういうことなのか?仏法ぎりぎりの真理とは、どういうことのなのか?と、問われた。
この公案には、どうする、という答えがあるわけではない。
命がかかった、ギリギリの状態の時にならないと、答え(見解・けんげ)は出てこない。
そのような「答え」は教えられるものではなく、自分で工夫するしかない。
ということ。
禅では、ぎりぎり絶対絶命のところまで、人を追い詰めて、気付かせる。
それが、禅のやりかた。
追い詰められてはじめて、人は真剣になる。
開き直って大転換が起きる。
火事場の馬鹿力が出る。
その境地をわが物にすれば、怖いものが無くなる。
窮地に陥っても、大安心の世界、自由自在の境界を楽しめる。
と。
また、
「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、踏み込み行けば後は極楽」
と言う言葉も教えていただいた。
あぁ、、、踏み込んでいけば、後は極楽、、、か。。。なるほど。
追い詰められないと、真剣にならない。
夏休みの宿題みたいだな、、、なんて思いつつ。
たしかに、どうしようかなぁ、、、とか、モンモンと悩んでいる間は答えが出ない。あるいは、悩ん出いなくても、安穏としているときには、人生の転換期はこない。
ピンチ!!とか、大変!!!とか、
追い詰められて、選択を迫られて、、、ようやく決断する。
決断してしまえば、あとは行動すればいい。
たしかに、そんなものかもしれない。
追い詰められるって、それはそれでストレスになることだけれど、そこで自分で考えて、自分で決断した時こそ、人生が一歩すすんだ時なのかもしれない。
そういう重要な時こそ、人の言葉は、アドバイスではなく意見として聞こう。
自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。