日本の世語による禅の言葉:無術の術とは、完全に無我となり、我を没することである

日本の世語(和歌、俳句等日本文学)と禅

 

坐禅はインド発で、中国を経て日本にやってきた。日本では、神道と融合して、日本化されて伝わっている。なので、日本の坐禅は、神道と気持ちが一つになっているところがある。公案は、「碧巌録」とか「無門関」といった古典から出されていることが多いけれど、日本の一般の言葉、世語でだされている公案もたくさんある。

ということで、日本の世語からくる公案を、いくつか紹介いただいた。
世語とは、和歌・俳句・川柳・都都逸など日本文学に使われる言葉たち。

 

日本の神話から。

弓も折れ、矢も尽きはつる、処にて、
さしも許さで、強く射てみよ 

鎌倉時代の禅匠の言。鈴木大拙「禅と日本文化」(欧米人向けに英語で書かれたもの)に引用されている。

「矢幹(やがら)なき矢を、弦なき弓で射れば、そはかならず、かつて極東の人々の歴史におこったように岩をも突き通すであろう。
禅宗と同様に、芸術のすべての部門において、この”危機の通過”ということは、あらゆる創造的作品の根源に到達するために極めて肝要だと考えられている。」

火事場のバカ力からみたいのが、禅ではおこる、と言う公案


「何のその、岩をも通す、桑の弓」
は、赤穂藩士・大高源吾の作。

桑の弓は、誕生した男子の出世を願う儀式用の弓で、矢は蓬(よもぎ)で作る。か細い蓬の矢でも一念をもって射れば岩をも通すという意味で、「桑弧蓬矢(そうこほうし)」は男児が志を立てるたとえとされている。「新泉岳寺(福岡福津市津屋崎)」境内に句碑がある。

 

「石に立つ矢のためしあり」
中国楚(そ)の熊渠子(ようきょし)が、一夜、石を虎(とら)と見誤ってこれを射たところ、矢が石を割って貫いた。『韓詩外伝』巻6、漢の李広(りこう)が猟に出て、草中の石を虎と思って射たところ、鏃(やじり)が石に突き刺さった『史記』「李将軍伝」の故事

 

矢と言えば、オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」より
弓と禅の指導者・阿波研造範士が、弟子ドイツ人哲学者ヘリゲルの質問に言い放った言葉。
あなたは無心になろうと努めている。あなたは故意に無心なのである。それではこれ以上進むはずはない。」

無術の術とは、完全に無我となり、我を没することである。」

 

公案というと、難しそうだけれど、日常的に触れる言葉の中にも、う~~ん、と唸りたくなるような言葉はたくさんある。

 

そういう、言葉にアンテナを立てる心の余裕が大事なんだなぁ、、、と思った。

 

あれこれ考えるより、感じてみよ、ってことかな。

 

夏休み。

目標をもって頑張るのも大事だけど、何も考えずにぼ~~~っとすることも大事だ。

なんて、自己正当化しつつ、今日は、のんびりしよう。

ひとやすみ、ひとやすみ。。。。