『「言葉」が暴走する時代の処世術』 by  山極寿一、 太田光

「言葉」が暴走する時代の処世術
コミュニケーションで悩む全ての人へ
山極寿一
太田光
集英社新書
2019年12月22日 第1刷発行


先日読んだ、山極さんの『京大総長、ゴリラから生き方を学ぶ』が面白かったので,

山極さんの名前で図書館で検索してみたところ、出てきた本。借りてみた。

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表紙には、山極さんと太田さん(爆笑問題)の写真。太田さんの思考も結構好きなので、このお二人の対談とても面白そうと思って、読んでみた。

 

感想。
面白い!
「言葉」って、すごいけど、コワイ。確かに、暴走する。うんうん、そうだよね、って共感することが沢山あった。

 

表紙の2人の写真の間には、
「人間関係の基本、それは愛を求めない事」と。
この本を要約すれば、その一言に尽きる。
そして、ゴリラの話から、言葉が無くてもコミュニケーションはできる、、、ということも。
逆に言えば、言葉だけではコミュニケーションにならない。SNSへの誹謗中傷の書き込みのように、、、。


表紙の裏書には、
”いつでも、どこでも、誰とでもつながれる時代。しかし、かえって意思疎通がうまくいかないと感じることはないだろうか?「わかってもらえない」といった日常の出来事から、 SNS での炎上、引きこもりなど、コミュニケーションが断絶されるケースが増えている。
 この問題に、爆笑問題太田光と霊長類学者の山極寿一が挑む。ときに同意し、ときに相反しながらたどり着いた答えとは?
 私たちは誤解している。大切なのは「わかってもらえない」ではなく、「わかろうとすること」、そっと寄り添うことなのだ。コミュニケーションに悩む全ての人に贈る処方箋。
と。
 


改めて、お二人の経歴を覚書。(2019年出版当時の掲載)

太田光(おおたひかり) 1965年、埼玉県生まれ。漫才師、作詞家、文筆家、映画監督。1988年に田中裕二漫才コンビ爆笑問題」を結成。中沢新一との共著『憲法九条を世界遺産に](集英社新書)がベストセラーに。

山極寿一(やまぎわじゅいち)1952年、東京都生まれ。霊長類学・人類学者。京都大学総長。京都大学大学院理学研究科博士後期課程単位取得退学。理学博士。日本学術会議会長。


裏表紙から、お二人の言葉をそれぞれ。
”誰かと親しくなりたかったら、たくさんの手紙を書くより、一度でもいいから一緒にメシを食うことです。同じものを対面して仲良く食べる食事という行為は、初めから平和を前提にしている。仲がいいから、戦う気持ちがないから、一緒に食卓を囲むんですよ。ただ、今、非常に危機的だと思うのが、そうした習慣が崩れつつあるということです。”  by 山極寿一

”今、引きこもっていて、「何で俺はこうなったんだろう」って悩んでいる人たちに、「理由なんかわからなくて当たり前だ」と言ってやりたいんですよ。哲学者が人生をかけて考えてきたのと同じテーマを、あんたも考えているんだぜって。何十年も引きこもっていたかもしれないけれど、その経験は哲学者並みに貴重だと思うんですよ。”  by 太田光

太田さんの著書は読んだことは無かったけれど、もともと言葉を職業にする人なので、なんとなく彼の考え方は耳にしている。奥さんとのなれそめも、蒲団か変えて彼女の家にある日突然いついた、と言う面白さ。言葉の端々に、よくよく物を考えている人だなぁ、、と感じることがあったけれど、本書を読んで知ったことが一つ。太田さんは、高校生の3年間、学校には毎日行っていたけれど、誰とも口を利かなかったのだそうだ。ある種の引きこもり。とことん、自分と対話していたのかもしれない。そうか、そういう時間を過ごした後に、あふれだしている言葉が今の太田さんなのかもしれない、と、思うと、ちょっと感動した。あなたも、哲学者のように3年間思い悩んでいたのね、と。

目次
序章 「新しい」人間の登場 ディストピアへ続く道
第1章 「言葉」が暴走する世界への対処法
第2章 今、失われつつあるもの
第3章 ケンカの目的は和解にある
第4章 「言葉」だけに頼ってはいけない
第5章 「伝える」のではなく、「寄り添う」ことを

お二人の対談は、何とも、楽しい。
確かに、お互いに考えが異なることもあるけれど、二人の対話はちゃんと成立する。そうなのだ、対話するというのは、合意するということではない。互いの考えを一生懸命聞くってことなのだ。それがコミュニケーションってわかっている二人の話だから、なんだか、自分まで心が広くなったような気持になってくる。

うん、そうだよね。
大事なのは、「わかろうとすること」なんだ。

ケンカの目的は和解にあるって、まさに、そういうことだ。

 

よく、「好きの反対は、嫌いじゃなくて、無関心」っていうけれど、まさに、ケンカをするのは相手にわかってもらいたいという思いがあるからだ。
どうでもいい相手なら、ケンカするだけ時間の無駄、、、、。
山極さんは、アメリカがベトナム戦争をしかけたのは、和解の為ではなくスポーツ感覚だったのではないか、と。だから、負けたのだ、と。
今のロシアのウクライナへの侵攻も、和解のための戦いではない、、、なぁ、、、と思う。


「言葉」は本来、和解のための最良の手段だったのに、その言葉を和解のために使っていないロシア。両者、非難し合うのみ、、、では、残念ながら、停戦は程遠い、、、。

 

お二人の中で、「言葉が暴走」というのは、SNS、チャット、なんであろうと「話し言葉が無味乾燥なテキスト情報として流通」し、「本来、伝えたい思いや熱量みたいなものが捨象され」てしまうことを指している。
LINEのメッセージでやり取りしているだけで、本当に思いはつたわっているのだろうか?と。今の若い人は、そういう世代だから出来ているのかもしれないけれど、直接会って話すのとは、やはり違うだろう。

そして、お二人にとって「一緒にメシでも食いながら話す生の時間」は大切なのだ、と。
うん、私も、どちらかと言うとそういう世代かな・・・。

 

第二章の「失われつつあるもの」と言う話の中で、「型」と言う表現がでてくる。お祭り、冠婚葬祭、ひな祭り、華道、茶道、、、日本の文化には「型」があってルールがあるわけではないのだ、と。作法があって、型がある
「型」に当てはめてふるまうことで、あえてルールにする必要はなかった。
ところが、「型」が失われ始めると、明示的な「ルール」にしないと社会がやっていけなくなる。これは、おおいに共感。

私は、ルールというものがあまり好きではない。ルールにしてしまうことで、なぜそれをしないといけないかを考えなくなるから。
赤信号は止まる、は、安全の判断を自分でできない子供も一緒にいる社会だから、ルールでいいと思うけど、大人の世界なら、ルールより型だったり、礼儀だったり、思いやりだったり、、、、そういうものを原理原則に、自分で判断する方がいいと思っている。
判断できない時には、ルールが必要、というのはわかるし、私もルールに頼りたくなることはもちろんあるけれど。

そして、「型」って言われてみると、確かに「型」なのだ。
時代とともに変わることもあるかもしれないけれど、「型」って、確かに宗教とは異なる日本人のこころのよりどころだったのかもな、って思った。
そして、太田さんが山極さんの「型」の話に、「型が失われると、憧れの対象もいなくなる」と納得するのが、よくわかる。型は親から子へ、師匠から弟子へ、受け継がれていくものだから。型は、マニュアル本で学ぶものではないのだろう。

そして、「型」を伝えていくには、言葉以上のものが必要、、、ということ。


第五章、寄り添うということで、伊藤亜紗さんの『どもる体』の話が出てきた。私は、彼女の『手の倫理』しか読んだことがないけれど、彼女のいうことはなんとなくわかる。吃音に悩んでいる人は、なんとか吃音をなおそうとして、リズムをとってみたり、優しい言葉に置き換えてみようとしたりするのだけれど、最終的には、自分の言葉ではなくて辛くなってしまうのだ、と。むしろ「どもる体」の方が嬉しいんだ、と言う話。

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この話は、別に、プレゼン上手がコミュニケーション上手なわけではなく、自分なりのプレゼンでよいのだ、と言う話。うまく話せなくても、コミュニケーションがちゃんとできる人はいる。ろうあ者だってそうかもしれない。
ここで、太田さんは、相模原の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の事件のことを言及する。犯人より、殺されてしまった障害者たちの方が、ずっとコミュニケーション能力があった、と。
ほんとに・・・・私もそう思う。

 

対談の中で、お二人から、それぞれ好きな作家の話が出てくる。
太田さんは、アメリカの作家、カート・ヴォネガットタイタンの妖女。ブラックジョークの塊のような人だと。ちょっと、面白そう。
山極さんは、スタインベック『キャナリー・ロウ(缶詰横丁)』。どちらも面白そうなので、今度、読んでみようと思う。

そして、太田さんは誰とも話をしなかった高校3年間、本があるから社会とつながっていた、と。山極さんは、読書は自分も一緒に体験しながら読むから、誰かとつながれるのだと。
そして、誰かとつながれるのは、本だけではなく、農業、林業、漁業といった一次産業もそうなのだ、と。自分の身体を通じてその土地や自然と「対話」する仕事は、誰かとつながれるのだと。あぁ、なるほど。わかる気がする。

脱サラをして農業をはじめた知人がいるのだが、会社より農業のほうが人とのつながりを感じる、、、から、、と。そういうの、あるかもしれない。

なかなか、考えさせられる本だった。


岸見さんの『孤独の哲学』のあとによんだから、なおさら、言葉と繋がりについて、考えさせられた。

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「人間関係の基本、それは、愛を求めないこと」
大事かもね。 

 

そして、英語の勉強をしていたら、こんな言葉が出てきた。

”A person can be lonely if he or she is loved by many people."

人はたとえ大勢の人に好かれていても、孤独でありうる。

 

色々、あるね。

 

「言葉」は、すごい。でも「言葉」も道具だ。

道具は使い方を間違えると悲劇になる。

「孤独」も同様に、どう解釈するかということなのかもしれない。

 

「人間関係の基本は、愛を求めないこと。」

なんだね。