『和の思想 日本人の創造力』 by  長谷川櫂

和の思想 日本人の創造力
長谷川櫂
岩波現代文庫
2022年7月15日 第1刷発行


*本書は、2009年6月中央公論新社より刊行された。岩波現代文庫に収録するにあたって新たに第1章を書き下ろし大幅に加筆を施した。

とある勉強会で隣に座っていた友人が読んでいて、面白そうだった。すぐに読んでみたくて、彼に会ったその翌日に本屋さんに寄った。岩波のコーナーで平積みになっていたので買ってみた。

 

帯の背中には
和とは、日本とは何か

表には
”羊羹は
瞑想の菓子
春の雪
異質のものの共存こそ、和の創造力である
解説:中村桂子

 

帯にある本文抜粋には、
和を創造的運動と定義すれば、峠の霧が晴れ渡るようにたちまち視野が開けるだろう。それは漱石谷崎が考えた「江戸時代以前のもの」などではない。江戸時代以前か以後かにかかわらず、それは古代から未来まで日本人がいるかぎり、この国に生き続ける巨大なエネルギーの坩堝なのだ。”

 

裏には、
”日本文化は涼しさの文化である。それは、この蒸し暑い日本列島に暮らす人々が、外来文化を夏を基準にして、作り変えてきたものだからである。異質のものを受容し、選択し、変容させる力を具体的に考察し創造力に満ちる「和」という運動体の仕組みを解き明かす。それは同時に、日本文化についての名随筆、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』がはらんでいた問題に迫る新しい『陰翳礼讃』論でもある。”
と。

 

感想。
面白かった。


『陰翳礼讃』は、確かに、日本の美と言うか、わびさびというか、随筆として素晴らしいし、旅先で「ここは、谷崎が『陰翳礼讃』にも描いた美を表現しているんですよ」なんて言われると、ほほぅ、日本の美だな、、、なんて思う。
でも、著者の長谷川さんは、『陰翳礼讃』での谷崎の視線を、ばっさり切り捨てたりもする。
ほんと、面白い。


オリンピックのシンクロナイズドスイミングで、歌舞伎をテーマにしたけどダメだったから次は忍者にした、というエピソードから、歌舞伎や忍者が今の日本人の和の心のわけないだろぉ!みたいな、突っ込み。歌舞伎よりは忍者の方が海外での認知度は高かったみたいだけれど、今の日本人の日常に「忍者」はない・・・。外国人が日本っぽいとおもうだろうという、、、なんて卑屈な、、、と。

へぇ、、、面白いひとだなぁ、って感じ。

 

著者の長谷川櫂さんは、1954年生まれ。俳人、俳句結社「古志」前主宰。「きごさい(季語と歳時記の会)」代表。朝日俳壇選者。俳句に関する著書も多数。

 

しらなかった。
実のところ、著者の経歴をみないで本書を読み進め、随分と俳句や短歌にくわしいかただなぁ、、、、と思って、、、時々でてくる俳句の下には、「櫂」とあって、、、それでも著者本人の作品とは気がつかずに読んでいた。。。
そして、本書の後半は、いよいよ言葉、俳句、に関する言及が専門家らしくなってきて、むむ??この著者は一体どんな人なんだ??とおもって、著者紹介をよんでみたら、俳人だった。。。

本を読むときは、著者のことを知ってから読むようにしているのだけれど、本書は、友人が言った「和菓子の定義ってしってた??」の言葉に惹かれて、最初から貪るように読んでしまった。

でも、面白かった。

 

「日本」とか、「和」とか、、、いいとか悪いではなく、日本人であることに漠然と感じる誇りのようなもの、ちょっと、言語化されているような気がする。

「日本人」であること、「和」を大切にしたいと思っているなら、おすすめ。なにかしら、腹落ちするものがあると思う。

 

目次
第一章 和菓子の話
第二章 和の誕生
第三章 なごやかな共存
第四章 取り合わせとは何か
第五章 間の文化
第六章 夏を旨とすべし
第七章 受容、選択、変容
第八章 桜の話

 

友人がいった、「和菓子の定義ってしってた??」。第一章が和菓子の話。
ほんと、和菓子の定義って、しってた???
カステラは?金平糖は?
両者、和菓子なのだそうだ。

著者は、長年の疑問を、日本の食文化研究者らとの座談会できいてみたのだそうだ。
答えは、
「江戸時代の終わりまでに日本で完成していたお菓子が和菓子です」
と。
へぇぇぇ!!
明治42年に東京麻布十番の浪花屋総本店が考案して売りだした「たい焼き」は和菓子ではないらしい。

あんこをつかっているとか、寒天をつかっているとか、、、関係ないのだ。

と、そんな「和菓子」を引き合いに、「和」をかぶせた和服、和食、和室、「日本」をかぶせた日本庭園、日本建築、と言う言葉、全てにおいて、「和」とは何か?「日本」とは何か?という本質の問題をはらんでいる、と。

皿の上の一切れのカステラが、和とは何か、日本とは何か、という大きな問いを投げかけている。”と。

ふふふ。
そうかもね。

 

そして、夏目漱石(1868~1916)が『草枕』のなかで「羊羹」を絶賛するくだりが紹介される。ここで「『草枕』は、明治以降進んできた西洋文明化によって滅んでいく東洋の楽園の物語」として説明されている。
そこでの羊羹の描写。
あの肌が滑らかに、あの緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青みを帯びた練上げ方は、玉と蠟石の雑種のようで、甚だ見て心地がいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い練羊羹は、青磁の中から生まれたようにツヤツヤして、思わず手を出して、撫でてみたくなる。
素晴らしい、羊羹への賛辞。

これは、「和」ということか。

そして、谷崎潤一郎(1886~1965)の『陰翳礼讃』。 そこには、この漱石の羊羹の描写を引き写しているともいえる描写がある、と。

 

そして、著者は「羊羹」の由来を調べてみたところ、もともと「和」どころか「お菓子」ではなかったのだということが判明。羹とは、もともと肉の煮込み料理のことで、羊の羹は、モンゴル人の郷土料理だった。十四、五世紀、鎌倉時代から室町時代にかけて中国文化が渡来僧や留学僧によって京都や鎌倉に伝わり、その一つが羊羹だった。でも、肉食をしない禅僧や仏僧は、肉の代わりに小豆をつかって、羊肉もどきをつくった。それをそのまま羊羹とよんだのだそうだ。そして、小豆、砂糖、寒天、、、、と羊羹の材料の中で、日本古来の材料は、実は寒天だけだ、、と。小豆については諸説あるようだが。

和から羊羹から、随分と面白い話に飛んだ。
面白い。

 

羊羹だけでなく、饅頭、煎餅、最中、大福、、、いずれも「和菓子」ではあるけれど、日本で生まれたのではなく、海外に起源があるそうだ。
言われてみれば、本当に日本で発生したものなど、、、縄文土器くらいか??

 

著者が言いたいのは、日本人は古くから海外からの様々な物を受容し、自分たちが持つものと融合させて「和」を作ってきたのだということ。そういう、創造的運動をし続けるのが老舗と言うものであって、ただ「伝統」をかたくなに変えないということではないのだ、と。

神仏習合もそうだけれど、日本人は何かを取り入れて自分たちの文化になじむようにするのがうまいのかもしれない。
島国だからこそ、「外から来たもの」というのが分かりやすいだけかもしれないけれど。


と、なかなか、視点が面白いのと、今の時代のことと昔のこととを対比させた表現が多いので、わかりやすい。

面白い一冊。

 

続きは、また、別途。