『歎異抄』で、もっとも有名な言葉だろう。
「善人なおもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」
分かるような、わからないような、、、言葉だな、と思うので、ちょっと、深堀。
『歎異抄』は、親鸞の没後20数年が過ぎた正応元年(1288)頃に書かれた書物で、著者は親鸞の弟子であった唯円(ゆいえん)と言われている。親鸞の教えの手引きとして書き記したのが、『歎異抄』。
親鸞は、阿弥陀仏への絶対的信仰を往生の要義とした浄土真宗を広めた人。その、親鸞の教え。念仏さえとなえればいいって、、、ま、そういうものが求められた、混乱の時代だったのだ。
親鸞については、いつか、もっとじっくり読んでみようとおもいつつ、、まだ読んでいない。
「善人でさえ往生できる。まして悪人ならなおさらや。」と、直訳すると、善人より悪人のほうが救われる、、となってしまうのだが、そういうことではない。
「悪人」とは、仏様の眼に映る、苦しみの中で生き抜いているすべての人のこと。
「善人」とは、かりそめの幸せに溺れ、阿弥陀様にすがるほどの苦しみに気が付いていない人のこと。
ここでいう悪人というのは、極悪非道な悪いやつではなく、自分の中に悩み、苦しみ、悲しみを抱えて苦しんでいるひと、つまりは普通の人々。
だれでも、何かしらの悩みを抱え苦しんでいるもの。程度の差こそあれ、苦しんでいる人にほど、仏様は手を差し伸べてくれるのだ、と。
本当に幸せになるには、自らの姿を正しく知ることが大切だ、と言う教え、、、だそうだ。
目の前で起きている苦しみ、悲しみから目を背けて、なかった振りをしてしまえば、それはそれで楽に生きられるかもしれない。でも、正しくその悲しみと対峙して、それでもなお、前に進もうとする人にこそ、慈悲のこころが注がれる、と。
そもそも、「阿弥陀様を信じていれば必ず救われる」という教えの考え方は、私の生き方とはちょっと違うのだが、「善人なおもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」という言葉は、なにか、心をざわざわさせる感じがするのだ。
なんというか、人生うまくいかないことがあって、当たり前だよね、って言われている感じ。
そうなんだよね。
思い通りに行くこともあれば、そうでないこともある。
自分自身の人生とは直接関係が無くても、ウクライナ侵攻のように「そんなことは起きてほしくない」という人災が起きることがある。
コロナだって、起こる。
海難事故だって起こる。
子供が虐待されて亡くなる、車に放置されて亡くなる、、、痛ましくて、痛ましくて、、、心を痛めずにはいられないことは、起きてしまう。
そういう世の中で起きていることに一喜一憂して、振り回されてはいけないのだろうけれど、自分に関係ないこととしてみて見ぬふりをするのも違うのだよな、、って気がしている。
かといって、自分に何ができるわけでもないのだけど。。。
自分の無力さと向き合いつつも、寄り添う、それでいい、ってこともある。
よくわからないなりに、
「善人なおもつて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
起きていることは、すべて起きているという事実として正しい。
それをどう解釈するかは、自分次第。
一つの言葉をどう解釈するかも、自分次第。
やっぱり、
自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。
無の時間と、考える時間。
どっちも大事。