『閉された言語・日本語の世界 【増補新版】』 by  鈴木孝夫

閉された言語・日本語の世界 【増補新版】 
鈴木孝夫
新潮選書
2017年2月25日
*本書は1975年『閉された言語・日本語の世界』(新潮新書として刊行されたものに加筆修正をほどこし、増補新版として再刊するものである。

 

とある勉強会の課題本だったので、読んでみた。
もともとは1975年の本ということだけれど、せっかくなので情報が更新されている増補新版の方を読んでみた。

 

著者の鈴木さんは、1926年東京生まれ。言語学者慶応義塾大学名誉教授。カナダ・マギル大学イスラム研究所員、イリノイ大学イエール大学訪問教授、ケンブリッジ大学訪問フェローを歴任。本書を読んでいても、日本語を愛してやまない、、、という感じがするのだけれど、『日本語と外国語』『武器としてのことば』『日本人はなぜ日本を愛せないのか』『日本語教のすすめ』など、著書も沢山。面白そう。

 

感想。
なかなか、深く、面白い。
ソフトカバーの単行本で、253ページ。なかなかの読み応え。あぁ、なるほど、この本をテーマにみんなで語り合ったら面白そうな本だ。課題本に選ばれた理由がわかる気がした。今参加している有志の勉強会は、「日本のこころの源流を探り未来を共創する懇話会」というタイトルで、ざっくばらんに色々なことを語り合う。日本語はテーマとして面白いし、語り出したらみんな止まらない。

 

本書からは、著者の、日本人は日本語への愛がたりないのではないだろうか、という主張を感じる。そして、なぜ義務教育でも大学でも、誰でも彼でも英語を学ぶ必要があるのかわから~~ん!という主張。英語を使う将来を考えていない生徒が英語なんか一生懸命学ぶわけがない。だれかれ見境なく英語の学習を強制することは、総合ビタミン剤を健康人、病人の区別なく、絶えず飲ませるようなもので、無駄も甚だしい。時間の無駄だと。ちょっと、笑っちゃうけど、確かにね。

 

目次

第一章 日本人は日本語をどう考えているか
第二章 文字と言語の関係
第三章 世界の中の日本語の位置
第四章 日本文化と日本人の言語観
第五章 日本の外国語教育について

 


第一章では、海外で暮らす日本人が、子どもに日本語教育をしないのは何故なのか?日本語より英語を学ばせようとするのはなぜなんだ?という疑問提起から始まる。それが、良いとか悪いとかいっているのではない。何故?と言う問い。
そして、志賀直哉が、終戦直後に「日本語なんて捨ててしまって、世界で一番いい言語、一番美しい言語をとって、そのまま国語にすればいい」という発言をした話。これは、日本語に関して討議していると、必ず出てくる話。文学者であった志賀直哉が、日本語を捨ててしまえと言ったことは、当時でもそれなりのショックをもって受け取られたのだろう。志賀直哉にとって一番の言葉、それはフランス語であったのだけれど、鈴木さんは何が一番よくて一番美しい言葉かなんて、個人の勝手だ、と。そりゃそうだ。

ただ、文学という点で言うと、確かにフランス文学の美しさはあるのかも、、、と思う。私は、理系で育ってきたけれど、昨今の「人気がないので仏文科が無くなる」、というニュースはちょっと残念に思う。仏文科は仏文科として、フランス語とその文学を、学問として深めてほしいなぁ、と言う気がする。そして、日本語で語ってほしい。


次に、日本語の曖昧さについて。私たち、日本人自身が「明晰なものは日本語ではない」と思っている節があるのではないか、と。鈴木さんは、曖昧さも容認派のようだ。
たしかに、日本語と言うのは主語が無くても成立してしまうし、喋りながら最後に否定してしまうこともできる。あるいは、「・・・だと思う」と言うのかと思えば、「・・・だと思う、と言うような風に言う人もある」などと他人の発言のことにしてしまったり。
これ、通訳をしているととても困る、、、。


曖昧さ、、、あってもいいと思うけど。曖昧な表現があるから、空気を読むという技が磨かれる。空気を読むのって、時と場合によっては必要なこともある。空気に流されてはいけないけれど。

 

第二章の文字と言語については、漢字について。漢字は、訓読みと音読みがあるからややこしい。でも、だからこそ、漢字の意味があるのだ、と。社会人類学者の梅棹忠夫は、漢字の訓読み廃止提唱者だった。でも、訓読みがあるから概念とも結びつく。ただの音でないから、意味がある、というのが鈴木さんの考え。漢字があるから、同じ音の言葉も文字で書くと区別する事ができる。ひらがななら区別つかない。
・スイセイ: 彗星、水星
・ハシ: 橋、端
例を挙げればきりがない。
西洋では、同じ音であるがために、言葉として使われなくなってしまうものもある、という。

 

言葉が無くなってしまった例があげられている。

中世には、
queenとquean
と言う言葉があった。前者は「王女」、後者は「あばずれ、悪い女」と言う意味だった。それぞれ、クゥイーンとクィエーンと発音されていたのが、だんだんと後者もクゥイーンと発音されるように変化してきて、紛らわしくなって、言葉として使われなくなったのだそうだ。

 

日本であれば、解説を付けなくても、漢字で書けば区別できる。だから、日本は同音語が残っているのだと。面白い。

 

第三章、世界の中の日本語の位置。面白いのが、日本では日本固有の文学を、日本文学と言わずに、国文学といい、日本語を研究する人は、国語学者と呼ばれることが多いという。たしかにそうかもしれない。国語といえば日本語であるのが当たり前の国だからだろう。
一方で、外国人が日本語を習っているときに、「国語を習っています」と言われると、違和感を感じてしまうという。外国人が習うのは「日本語」で、日本人が学ぶのは「国語」。言われてみると、ちょっとわかる気がする。

 

そしてこうなっている背景には、 私たち日本人が外国の人に自分の国の言葉を使ってもらったり、研究してもらったりした経験が極めて乏しく、そのくせ太古より異民族の言葉を、それもほとんど文献だけを通して学び続けた長い歴史を持つという、国際的な言語的一方交通を行ってきた珍しい民族だということと関連があるのではないか、という。
相手を理解しようとするけれど、自分たちを理解してもらおうと、積極的にはしてこなかった民族。一方通行で異国文化を取り入れてきた民族。たしかに、そうかもしれない。イギリス、スペインといった植民地へ自分達の文化を植え付けていった国に比べると、日本は受け身の方が多かったかもしれない。

 

著者は、「自己を国際的な場面において客観視する経験と能力の欠如、これこそ今後の日本の解決しなければならない最大の問題なのである」と、言っている。自己を客観視することは、相手に理解してもらうには、重要な視点。個人でも、組織でも、国でもそうだ。たしかに、、、自分たちの客観的観察が足りない、、、というのは、個人でも問題になりえるかもしれない。

 

でも、日本語と言うのは、実は世界的に見れば、1億2000万人の日本人がつかっているのだから、使用者数という点では、世界第6位なのだそうだ。なんと。ドイツ語ですら9500万。フランス語は6000万程度。
人口がおおいというのは、そういうことなのだ。
ちなみに、使用者数1位は、中国語。2位:英語、3位:スペイン語、ロシア語、5位:ヒンディ語(インド)。
なるほど。

だけど、日本語を学ぶ外国人は多くはないし、多くの日本人は海外で流暢な日本語が聞こえてくると、当たり前のように「日本人がいる」と思う。日本語を話す現地の人ではなく、日本人だと思うのだ。そう指摘されると、はい、たしかに、、、。

そんなことからも、日本人は相手に自分をわからせるよう努力することをしてこなかったのではないのか、と。

 

日本語の話は、日本の文化の考察へとつながっていく。

長くなってしまったので、続きはまた。。