『読書会という幸福』 by  向井和美

読書会という幸福
向井和美
岩波新書
2022年6月17日 第一刷発行

 

日経新聞、2022年9月17日、朝刊の書評に出ていた。 面白そうなので、図書館で予約しようかと思ったら、蔵書になっていなかったので、購入した。

税別 860円。

帯には、

”私がこれまで人を殺さずにいられたのは、本があったから、そして読書会があったからだと言っても良いかもしれない。”

と。
なんと!
なんていうこと!

帯を読んだだけで、読書に人生を救われたのだろう、と思ってしまう。

 

表紙の裏には、
”ありふれた日常の中で、読書がどれほど豊かな時間を与えてくれることか。全員が同じ作品を読んできて語り合う会に、30年近く途切れることなく参加してきた著者が、その「魂の交流の場」への思いを味わい深い文章で綴る名エッセイ。読書会の作法や様々な形式の紹介、潜入ルポ、読書会記録や課題本リストも付す。”

うん、なかなか面白そう。

裏表紙側の帯には、「はじめに」からの抜粋が。

本は自分の人生を映し出す鏡でもある。だからこそ、かつて本を現実逃避の手段にしていた私は、読書会という場を与えられたことで、本をとおして人とつながり、メンバー達と30年近くにわたって本を語り合ってきた。本について語りながら、実のところは私たち自身の人生を語り合って生きたのではないかと思う。同じ本を読みながら、ともに年齢を重ねてきたという信頼感はとてつもなく大きい。”

と。

私も、読書会が好きだ。
といって、ここ数年、ご無沙汰しているし、何年も続いた読書会は一つもない。数年前にはやった音のコンテンツ、Clubhouseで、知り合いが開催する読書会に参加したのが最後、、、かな。ただ、読書会で読む本は実用書の類が多くて、小説を課題本にした読書会らしい読書会は、参加したことがない。本好きメンバーでFaebookのグループや、Teamsのグループでお薦め本の紹介、などで小説で取り上げて感想を共有し合うことがあっても、読書会で深く話したことは無い。本書で紹介されるのは、基本、小説の読書会。たしかに、面白いだろうな、って思う。読書会ではなくても、同じ本をよんだ感想を友人たちと話題にすると、盛り上がる。映画の話題より、本の方がそれぞれ独自の読み方があるので、多様な感想、解釈が面白い。しかも、流行りものでなければ、話題に出来るほどその本のことを覚えている人が自分以外にもいるというだけで、ちょっと楽しい。


感想。
うんうん、そうだね、って共感したくなることがいっぱい。それでいて、なにか、著者の孤独がただよう。帯にあった、「人を殺さずにいられたのは、、、」の言葉のせいなのか、、、。著者の孤独感なのか、自立心なのか、、、なにか、著者のかたくなな想いを感じてしまうところもある。でも、その正直な表現型が、読み手の感情を揺さぶる気がする。
著者は、時に人に深く共感し、時には夫であっても他人であるという距離感が感じられ、彼女にとっては何より本が心の癒しなんだろうな、と感じる。

 

著者の向井さんは、早稲田大学第一文学部卒業、翻訳家でもあるとのこと。故に、翻訳家としての視点から、翻訳本を読んだ時の感想であったり、原語はどうなっていたのかと言う関心事についても言及されている。現在は、東京都内の私立中一貫校の図書館司書。

 

目次
はじめにー 本をとおして人とつながる
Ⅰ 読書会に参加してみよう
Ⅱ 読書会に潜入してみる
Ⅲ 司書として主催する
Ⅳ 文学に生かされてⅠ
Ⅴ 文学に生かされてⅡ
Ⅵ 翻訳家の視点から
Ⅶ 読書会の余韻に浸る
おわりにー そして読書会は続く

 

巻末には、「読書会課題本リスト(1987~2022年)」が付いている。ドストエフスキー、ブルースと、チェーホフ、、、一人で読んでいたら挫折しそうな本がズラリ。

最初、著者がなぜ本に救われるようになったか、というエピソードがから始まる。

 

”わたしの両親は、けんかばかりしている夫婦だった。食事中も車の中でも罵り合い、互いの悪口を子供に言い、深く憎しみあっている夫婦だった。”
と、いきなり子どもの頃の家庭事情の告白から始まる。そして、そのような環境だったから、自分の部屋にとじこもって本にのめりこむようになったということ。

”本は現実逃避の手段であり、人間の機微を教えてくれる人生の学校であり、悶々とした想いを昇華する場でもあった。”と。


なるほど、本を深く愛してしまったわけだ。
そして、20代後半までは、本は一人で読み、一人で思いに耽るものだと思っていたし、それ以外に知らなかった、と。その後、翻訳をするようになって、原文をすみずみまで”解釈”したうえで、訳者自身の言葉で日本語を組み立てていく作業をするようになって、本を丁寧に読む方法を知ったのだと。そして、その数年後、翻訳の師匠である東江一紀氏に紹介されて、読書会の市民講座から始まった有志の読書会に参加するようになった。その読書会自体は、35年つづいているのだそうだ。

本書は、読書会に参加することのススメ、読書会の開催のポイントなどに始まり、具体的に取り上げた作品をもとに、どのような意見交換がなされたのか、などが記されている。
たしかに、エッセイでもある。

 

読書会の利点は、なんといっても、自分では手を出さないような本や途中で挫折しそうな本でもみなで読めばいつのまにか読めてしまう事だと。例えば、レ・ミゼラブルヴィクトル・ユゴー)は、冒頭から司教の日常を描いた場面がかなり長く続き、いっこうに主人公のジャン・ヴァルジャンがでてこないのだから、なかなか、物語にはいりこめない、と。そして、面白い話の展開になってきたと思ったら、長々とパリの下水道の話になり、、、、。まぁ、途中で挫折するポイント満載、、ってことだろうか。かくいう私も、全部読み通したことがあるのか、、、定かでない。きっと、読了していないと思う。それでも、なんとなく話を知っている、、そんな本の一つだろう。

 

そのような、ちょっと、読みづらい本をみんなと一緒だから読めてしまうのだ、と。それは、よくわかる。でもって、読書会は、参加し続けることが大事なのだ、とも言っている。主催者側であれば、参加者が例え数人に減ったとしても、開催し続けることが大事だと。

うん、わかる。有志の勉強会は、どんどん人数が減って、途絶えがちだけれど、そこを踏ん張ると、細く長く続けることができる。それは私自身、有志の勉強会で実感している。読書会も、まさにそうだと思う。わかるわかる、、、と、思わずうなづいてしまった。

 

著者が働いている学校で、生徒を対象に読書会をした時のことも語られている。思いがけず、普段は無口な生徒がふか~~い話をしたり、参加するのが苦痛でしかないという生徒がいたり、、、。

モーパッサンの『首飾り』を学校での読書会でテーマ本にした時、一人の男子生徒が「もし自分がこの夫の立場だったら、妻が借金を背負っても放っておく。だって、首飾りをなくしたのは妻なんだから」と発言したという話。その生徒は、「家族で会話なんかしない。みんなバラバラだよ。」と。。

モーパッサンの『首飾り』:華やかな生活に憧れていた女性があるとき、役人の夫とともにパーティーに招待され、友人から宝石の首飾りを借りる。ところがパーティーから帰るとその首飾りがないことに気がついて青ざめる。方々から莫大な借金をして同じ品物を購入し友人に返したあとは、夫婦で働きづめに働き、10年かかって借金を返済す。ところがその後友人にばったり会った時、真実を告白すると思いがけない答えが返ってくる。あの宝石はもともと安価な紛い物だったという。


生徒が、家庭事情をみんなに話すような事をさせるのは、どうなのか?という別の司書の意見もあったそうだが、著者は、こういう会話こそが学校での読書会で大事なことなのではないか、と語っている。本を読んで、内容を解釈したり、教訓を得たり、意見交換をするのはもちろんのこと、本について語るというのは、自分自身について語る、ということ。それが大事なのではないか、、、と。いじめ、家族関係、死など、普段は口にしにくい話題だからこそ、文学という媒体をつかって自分の想いを言語化できるのであり、それはとても重要はことなのではないか、と。

私も、どちらかと言うとその意見に共感。よく、大人の友人との間でも、「宗教と政治」を話題にするのはタブーと言われる。でも、本を通じてなら、話せるかもしれない。そして、相手の宗教観や政治についての意見をきけるというのは、場合によっては重要だ。

 

私の友人に、かつてカトリックの聖職者だった人がいる。今は還俗しているのだが、今でもカトリックであることには変わりはない。彼は、宗教的な話をしてくれることはあるけれど、決して相手にカトリックを薦めたりはしない。一方で、離婚後にプロテスタントの洗礼をうけたという友人は、たまに、プロテスタントの洗礼をみんなに受けてもらいたい、と言うようなことをいうことがある。ちょっと、それは、、、と思ってしまう。でも、その二人が一緒の場では、なかなか面白い宗教観というか、人生観の話になることがある。そんなとき、もとになるのは、何かの本だったりする。

 

そうなのだ、本について語るというのは、第三者的なふりをしつつも、やはり、自分のことを語るということなのだ。
だから、読書会でも、発言する人、発言しない人、、、が出てきやすい。


著者が薦める読書会のテクニックの一つは、だれもが同じくらい発言するように仕向けることだという。うん、そうじゃないと、誰かの主義主張を聞く会になってしまう。

読書会だからこそ、長々としゃべっている人がいれば、「そろそろ次の人に」ということもできる。
うん、色々な人の意見を聞ける読書会は、ほんと、楽しいと思う。年齢も、性別も、肩書も、あるいは国籍だって関係ない。同じ本を読んで、思ったことを語り合う。楽しいと思う。

 

もう一つ、読書会の大事なルールは、「人の意見を否定しない」。実は、これをちゃんとできる人は、大人だ。

若い時から読書会をしていると、そういう人間としてのルールみたいなものを学ぶこともできるのではないかと思う。読書会に参加する事は、主催者のスキル、参加者それぞれの個性で、様々なおまけがついてくるように思う。

 

翻訳家からの視点で出てきた話で、私にとっては目からうろこだったことがある。
モームの『人間の絆』を読んだ時に、タイトルに使われている「絆」が原文では「Bondage」だった、というのだ。つまり、「束縛、縛るもの」ということ。今の日本人は、「絆」といえば、2011.3.11震災の後の「絆」のように、良い意味しか喚起しないことを考えると、ちょっと、違うのではないか?と。
なるほど、、、。
人によっては、「枷(かせ)」とか「軛(くびき)」の方がよいのでは、と言う意見もあったそうだ。

たしかに、辞書に載っている「絆」の意味も、犬や馬などの家畜を木につないでおく綱のことで、「束縛・呪縛」という意味なのだ。「絆」と言う言葉が、「人と人との結びつき」という意味で使われるようになったのは、最近のことだそうだ。

へぇ。。。

翻訳家としての視点でみていなければ、気づかないだろう。
ときに、原文ではどう表現されていたのか、、、比較してみるって大事だ。

 

ほかにも、「こども」というのは、もともとは「小さなおとな」として扱われていて、「守られるべき存在」「教育を受ける権利のある存在」として扱われるようになったのは、近代のことだということ。よって、昔の本にでてくる「こども」の扱われ方に違和感を感じるのは、「こども」に対する社会の受け止め方がちがっていたからなのだ、とか。

 

なかなか、深く、面白い本だった。

巻末のずらりと並んだ読書会課題本。どれも、少しずつ紹介されているので、もっと読んでみたいと思う。でも、どれも、、、難しそう。。。

たしかに、読書会なら挫折しないかなぁ、、、、。

 

小説を読むことの楽しさ、人と感想を共有することの楽しさを思い出させてくれる一冊だった。

 

コロナ禍で、オンライン読書会も増えている。「猫町倶楽部」の潜入ルポもあった。日本最大の読書会で、今ではオンライン読書会も開催しているようだ。

 

読書会が気になっていようと、気になってなかろうと、本が好きならお薦めの一冊。とくに、海外の翻訳本を読むときの愉しみ方も参考になるかも。

 

やっぱり、読書は楽しい。