伊豆の踊子
川端康成
新潮文庫
昭和25年8月20日 発行
平成15年5月5日 129刷改版
平成2年5月20日 153刷
先日、伊豆への旅の途中で河津駅に降り立った。駅には、「踊り子文庫」といって貸出票を書いて借りられるようになって何冊もの『伊豆の踊子』がおいてあった。
1泊するので、翌日返却予定と貸出票に書いて、借りて読んでみた。
皆さん御存じ、『伊豆の踊子』。
裏の説明には、
"二十歳の旧制高校生である主人公が孤独に悩み、伊豆へのひとり旅に出かけるが、途中旅芸人の一団と出会い、一行中の踊子に心を惹かれてゆく。人生の汚濁から逃れようとする青春の潔癖な感傷は、純粋無垢な踊子への想いをつのらせ、孤独根性で歪んだ主人公の心をあたたかくときほぐしてゆく。雪溶けのような清冽な抒情が漂う美しい青春の譜である。"
とある。
40ページの短編。
旅の途中でも、さらっと読める。
感想。
うーん。よくわからん。
実に、よくわからん・・・・。
主人公は、孤独に悩んでいたのか??
旅の間に、2回読み返してみたのだけれど、主人公の孤独の悩みがどこに表現されているのかがよくわからなかった。踊子の純粋無垢な感じは、ただの幼さとも読めた。
ということで、旅から帰ってから図書館で借りて読み直してみた。
短編なので、物語としてはいたってシンプル。
学生の私が、旅の途中で踊子の一団と出会って交流し、最後は別れて一人で帰途につき、寂しさに涙する。そんなお話。
『伊豆の踊子』も『雪国』と同じように、場面の景色の描写から始まる。
”道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。”
場所は、伊豆の天城峠。
主人公の私は、二十歳。
”高等学校の制帽をかぶり、紺飛白(こんがすり)の着物に袴をはき、学生鞄を肩にかけていた。”
というので、若い男の学生さん。物語を読み進めていくと、東京の学生さんであることがわかる。
一人で伊豆の旅に出て4日目。 湯ヶ島温泉から天城峠に向かっている途中、主人公は、茶屋で旅芸人の一団にであう。茶屋で踊子が私に座布団をゆずってくれたことに、どぎまぎする。私はすでにその旅芸人たちの姿を2回みていて、どこかで出会えないものかと思っていたのだった。
一人旅の途中、くり返し目にした一団に、なにかの縁を感じてしまうのは、誰にでもあることかもしれない。ただ、私がドキドキしたのは、その中に一人の踊子がいたからだ。つまりは恋愛小説??
舞台になった湯ヶ島温泉にある湯本館は、川端康成が『伊豆の踊子』を執筆したことで有名。湯ヶ島温泉は、小説家が長期滞在して、筆を進めるのによい環境なのだろう。そんな、静かでおちついていそうな伊豆が舞台。
私が心惹かれた踊子は、17歳位に見えたのだが、実は一団の中にいた若い男(栄吉:24歳)の妹で14歳、薫という名前だった。一団は、栄吉と妻の千代子(19歳)、千代子の母(40代)と、薫にもう一人の踊子:百合子(17歳)。
私は、下田にむかうという一団と一緒に過ごしたいと申し出て、旅路を共にする。旅の道すがら、栄吉から一団のことをきいて、一団のこと、踊子のことを知っていく。栄吉と色々語りながら歩く一方で、気持ちは踊子に興味が向いている様子が伝わってくる。
薫は、子供なりに私に興味を持つ。そして、下田についたら一緒に映画を観るのだと約束するのだが、大人に止められてしまう。
薫と私のデートは叶わないまま、私は東京へ帰ることになる。
一行との最後の朝、私は船で下田をあとにする。栄吉と薫が見送りに来る。
にぎやかだった一団との旅を終えて、一人で東京へ向かう私。ふと寂しさが襲ったのだろう。涙がこぼれる。
一人、涙をこぼしながら船で移動する私の姿の描写で物語は終わる。
そんな、お話。。。
一人旅、旅先で知り合った人たちとの交流、そして一人での帰途。
私が孤独に悩んでいたのか、よくわからない。。。
でも、涙がこぼれたのは、踊子たちとの別れだけが原因ではなかったのかもしれない。
船に乗るときに、私は見知らぬ男から「学生さん、東京へ行きなさるだね。あんたを見込んで頼むのだね、この婆さんを東京へ連れてってくれんか」と頼まれる。息子と嫁を流行性感冒で亡くしてしまい、乳飲み子を含めた3人の孫を連れていた。近所だった男らは、婆さんを国の水戸に帰してやることにしたけれど、婆さんは何もわからない。だから、東京についたら、水戸駅の電車に乗せてやってくれ、ということだった。
快く引き受けた私。
また、船では、これから入学準備に東京へ向かうという少年も一緒になる。
14歳の踊子、息子を亡くした婆さん、新入生となる少年。
それぞれの人と自分の境遇を重ねたのだろうか。
涙をポロポロ流している私に、少年は、
「何か御不幸でもおありになったのですか」と訪ねる。
私は、
「いいえ、今人に別れてきたんです」と応える。
”私は非常に素直に言った。泣いているのを見られても平気だった。私は何も考えていなかった。ただ清々しい満足の中に静かに眠っているようだった。”
とある。
踊子が船を見送りに来てくれたことに満足したのか、人助けをしている自分に満足したのか、、、、。
少年は、自分のもっていた海苔巻きの寿司を私に分けてくれ、二人は一緒に食べる。人からの親切を自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ちだった、と。
う~~ん、こうして振り返ってみると、しみじみとしたお話だなぁ、、、という気がしてきた。
ごくありふれた旅の一場面のようであり、主人公がこの先の人生を歩むのに、踊子との思い出が豊かにしてくれるような、、、。
なんだかよくわからないけれど、『雪国』『伊豆の踊子』のどちらも、1度読んだだけでは分かりにくい。そういう深さがあるということなのだろうか。
『女であること』は、普通に面白かったんだけどなぁ。。。
川端康成の小説は、情景描写が多いような気がする。登場人物たちが、どうしたとかどう思ったとか言うことを直接書いているのではなく、間接的に書いている、という感じだろうか。だから、一度読んだけでは、ぱっと理解しにくいような、、、。
なんで、ノーベル賞なのだろう・・・・。難しいから???
この遠回しの表現が、現代でいえば村上春樹と重なるのかな、という気がする。まぁ、村上春樹の場合は、日常の場面とはだいぶ遠い話が多いけど。
小説にもいろいろある。
単純なものもいいし、こういう回りくどいのも、たまにはいい。
まぁ、この年になって川端康成を復習したって感じかな。
古典は古典としての良さがある。
そんな気がした。
153刷か、、すごいな。
伊豆に旅して、河津にいっていなかったら、読んでいなかったかもな。
旅と本は、セットだ。