随処(ずいしょ)に主となれば 立処(りっしょ)皆真なり
今朝教えていただいた禅の言葉。
随処作主 立処皆真 (臨濟録)
唐の時代の臨済禅師の公案。
一昔前?!流行った言葉らしく、座右の言葉としている人も、少なくないという。
私は、初めて聞いた。
意味:
今あるところに主人公になれば、どんなところに行っても、すべてそこが真実の場になる。
説明:
過去から現在に向かって、今がある。
今=随所。
空間的には、宇宙に対する自分がある。
自分のところが、全て宇宙とつながっている。
自分のところが、過去から未来、全てにつながっている。
これ以上のことはない。。。
つまり、真実。
趙州(じょうしゅう)和尚は、修行僧に
「一日二十四時間、どのように心を用いたらよいのか」
と聞かれた。
和尚は、
「 汝(なんじ)は二十四時間に使われているようだが、自分は二十四時間を使いこなしておるぞ」
と答えている。
自分が主格であるということがポイント。
時間に使われるのではなく、使う。
時間は、過去にも未来にもつながっている。
そして、今ここにいる自分も、過去にも未来にもつながっている。
もう一つ、言葉を教えていただいた。
「切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ 踏み込みゆけば あとは極楽」
柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい:柳生新陰流の2代目)の言葉。
どこに行っても極楽だ、というのが坐禅の究極の心理、というお話だった。
自分が今ここにいるということほど真理はない。
たしかに、そうなのだ。
そして、何をするかを決めるのは自分であり、そのための時間を作るのも自分。
うまくいかないことを誰かのせいにしたり、社会のせいにしたりしたって、何も解決しない。
自分が一歩「踏み込みゆけば」、未来が始まる。
そう、やっぱり、
自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。
一歩踏み込んでみよう。