「言志四録」(三) 言志晩録: 狂と狷(けん)二則

「言志四録」(三) 言志晩録
 佐藤一斎
川上正光全訳注
講談社学術文庫
1980年5月10日 第一刷発行

 

このところ、バタバタと忙しく、なんだか気ぜわしいのでゆっくり瞑想でもしたいところだけれど、今朝は坐禅会もなかったので、久しぶりに、ここから、一つ。

 

2 狂と狷(けん)二則 その1

 

狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有り。子賂(しろ)、冉有(ぜんゆう)、公西華(こうせいか)は、志進み取るに在り。曽晳(そせき)は独り其の撰を異にする。而(しか)るに孟子以て狂と為すは何ぞや。三子(さんし)の進み取る事に在りて、曽晳の進み取るは心に在り。

 

訳文
狂者とは、志ばかり高く行いの伴わない者をいうが、この狂者には進取の気象がある。また狷者とは引っ込み思案で、進取性にかけていると言われるが、この狷者には不善不義をなさず、自ら守るところがある。
 ところで孔子はその門人にある、子賂、冉、公西華ならびに曽晳に対して、おのおの其の志をはいわしめたことがある。その時前三者は、いずれも進取性のある志を述べたが、曽晳ばかりは、「暮春には春服(しゅんぷく)既になる。冠者五、六人、童子六、七人、沂水(きすい)の温泉に浴し、舞雩(ぶう)のあたりで涼風に吹かれ、歌を詠じながら帰って来たい」といったのに対して、孔子は「われはと曽晳に与(く)みせん」とほめられた。
 しかるに孟子は、この曽晳を狂者としたのはどういうわけであろうか。
自分が思うには、三人の進取的であるのは「事柄上」のことであり、曽晳の進取的であるのは「心の上」にあるのである。

 

語義
狂者(きょうしゃ):志高く一意それのみに突進するものを言う。
狷者(けんしゃ):知の働きは及ばないところがあるが、操守堅固にして断じて不善をなさないもの。


曽晳がこの問答を孔子としたときは、曽晳の年は、42,3で、老境にはいっていた。孔子は、70くらい。
当時は40で惑わず、だから、40を過ぎれば老境といってよかった。
だから、老人の友を求めるべきであるのに、若いものを求めている。それが、進取的である、ということ。それをほめた。

 

狂者がよいとか、狷者がよいとかいっているのではない。

ただ、曽晳の言葉をほめた。

老境でありながら、若者と交わりたいという言葉をほめた。

 

何歳からが老境というかというのは、今の時代とは異なるだろう。それでも、現代においても年をとっても若手と過ごす時間を多く持つというのは、進取的、、、といえるかもしれない。

 

老害」という嫌な言葉があるけれど、自分より年下の人たちともうまくやっていける人と言うのは、「老害」ではない人たちだろう。

年下、年上、どちらにしても、世代を越えた友達というのは、世界を広げてくれる。

会社の上司、部下というのは友達とは違う。やっぱり、会社とは違う世界の世代を越えた友達がいるというのは、素敵なことだ。

元をたどれば会社から派生した友人かもしれないけれど、会社を離れてもつながっている友人は、やっぱり友人だ。趣味の世界、社交の世界、友達が友達をよんで、友達の輪が広がる。

 

人生50年もやっていると、新しく知り合った人が、旧知の友人とつながっている人だったということも珍しくない。世間は狭い。でも、そこから自分の世界は広がる。

旅や本も世界を広げてくれるけれど、やっぱり、人との交流ほど世界を広げてくれるものはないのだろうと思う。

 

ちなみに「老害」を広辞苑でひいてみると、

「(老人による害)の意。硬直した考え方の高齢者が影響力を持ち続け、組織の活力が失われること。」

だそうだ。

 

やわらか頭、大事だね。

縦軸、横軸、時間と地域を超えて、友人がいると世界がどんどん広がる。

世界が広がるほど、自分の小ささを自覚できる。

それが、謙虚になる、ということにつながる気がする。

広い世界を持った人は、「老害」にはならないだろう。

広い世界の中で、自分がやるべきことを見つけた時、はじめて「天命を知る」のかもしれない。

 

私には、まだまだ見つからない。

一生、見つからなくて、死ぬときに気が付くのかもしれない。

ま、それでもいい。

いま、できることをがんばろう。

いまは、それが「天命」でいい。