『人間の建設』 by  岡潔  小林秀雄

人間の建設
岡潔
小林秀雄
新潮文庫
平成22年3月1日 発行

 

1902年生まれの小林秀雄と、1901年生まれの岡潔の初めての対談。二人の対談が本になっているのは知っていた。ある知人は、つまらんかった、と言っていた。でも岡潔をしってから、二人の対談をいつか読んでみようとおもっていたので、『小林秀雄全集21』を借りるついでに図書館でかりてみた。

 

183ページの薄い文庫本。わりとすぐに読める。二人とも、難しい言葉も使うし、注釈をみないとなんのことだかわからない話もあるのだけれど、それなりにさらっと読める。お互い、専門が異なるので、それぞれの発言への問いがそのまま読者が二人の対話を理解するヒントにもなっている感じ。

 

話は、学問、美術、文学、生き方、と多岐にわたる。二人の意見は必ずしも一致しない。「僕はそうはおもわない」とはっきりいうのが岡だし、どちらかというと岡がバシッときってしまう対話があっても、小林がそういうこともあるかとうまく受け流しながら続いていく、っていう印象をうける。小林は小林で、「このごろの酒はまずくなった」とか、批評を忘れない。

 

小林は、20代で数学と向きあうことをきめてから徹底して数学をしてきた岡を素晴らしいという。それに対して、岡は岡で、小林が批評をかけるのは徹底して理解しているからすごいとほめる。二人に共通するのは、徹底して調べて確信を得たものだけを、世の中に発表する、ということのようだ。


岡曰く、「確信しないあいだは、複雑すぎて書けない」といい、かつ、「文章を書くことなしに、思索を進めることはできない」とも言っている。

 

徹底的に、考える。言葉にする。確信する。PDCAじゃないけれど、多分、思考というのは常にぐるぐると繋がっていくのだろう。アウトプットすることでしか、頭の整理ができないことがある。そう、だから、こうしてブログに綴るのも、頭の整理のためだし。書いていくことで、頭が整理されてくる。読み返すと、自分でも何を言いたいのかわからないことがあるから、もう一度考える。
思考は、インプットとアウトプットの繰り返しだ。すごい人は、そのアウトプットの背景に確信があることだ。考え抜いた確信があるかないか、それが文章の力強さを支えるのだろう。

 

美の話の中で、小林が亡くなった知人の俳句をよんで、駄作ながら感動した、という話をしている。俳句とはいいがたい、川柳であったり、まったくもってうまくない作品なのだが、小林にとってはそれが心に響いて楽しかった、と。なぜなら、その句を作った日、自分と知人との間に何が合った日かがわかっているから。そのときの心を俳句でギュッと短くいい表しているから、面白いのだと。そうか、あいつは、そんな風におもっていたのか、と。
そして、芭蕉の句は素晴らしいけれど、芭蕉を直接知っている人にとっては、もっと面白かったに違いない、、というようなことをいっている。

 

知っている人の作品だからこそ、なんとなく感じるその身近さと意外さ。
へぇ、、あの人が、こんな作品をつくるんだ、っていう感動は、その作者をよく知っていなければ味わえない面白みかもしれない。
あぁ、やっぱりあの人の作品だ、っというのもあるけど。

 

本書は、最後に茂木健一郎さんのコメントが付いている。

"二人の対話は楽しい。わかりにくいところも、声を出して読んでみると、しみじみと心にスッと入ってくる"、と。

よくわからない文章を声に出して読んでみるって、結構大事だ。声に出して読み上げる。脳の仕組みなのか、発話することで記憶に定着したら、意味がわかってしまったり。
岡は、お兄さんが習った九九を真似して、一晩、蒲団の中でブツブツやっていたら翌朝には全部覚えてしまったらしい。

 

素読の効用、侮れない。
昔の寺子屋は、素読が基本だった。

 

読んでいてよくわからなければ、声を出して読んでみる。脳の仕組みとしても理解を助けるらしい。見る、聞くというインプットに対して、話す、書くというアウトプットをすると、理解がすすむ仕組みが人間の脳にはある。

 

すごい頭脳の二人の対話。たしかに、わからなければ声に出してみると、ちょっとわかるような気がする。面白い。

 

小林秀雄という人と、岡潔という人のことを良く知らないで読んでも、知の巨匠の対話なんだということが伝わってくる。専門分野が異なる二人の対話が成立するのは、やはり、共通の知の基盤があるからだ。古典文学、俳句、哲学。

 

やっぱり、人生を面白くするのは教養なんだということをつくづく感じる一冊。

薄くて、さらっと読める。なんとなく、夜より、お天気のよい昼間に読むのがおすすめ。明るく前向きに読める。

夜に読むと、アタマの中が活性化しすぎる。。。

は、それも人好き好きだけどね。