禅の言葉: 仏を殺せ

仏を殺せ

本日Zoom坐禅会で教えていただいた、禅の言葉。

 

タイトルだけ見ると、なんとも物騒な言葉で、どういうこと???という感じ。

お話によると、「本当の自由、心の豊かさ」のための言葉だった。

 

臨済録」にある、唐の時代の僧、臨済義玄(りんざいぎげん)の言葉。

 

”仏に逢うては仏を殺し、

祖に逢うては祖を殺し、

羅漢(らかん)に逢うては羅漢を殺し、

父母に逢うては父母を殺し、

親眷(しんけん)に逢うては親眷を殺し、

始めて解脱を得ん”


*親眷(しんけん):親族の事

 

 

これを引用して、無門関の最初の公案「無字」の解説には、次のように書かれている。

 

”驀然(まくねん)として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。関将軍の大刀を奪い得て手に入るが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岩頭に於いて大自在を得、六道四生(ろくどうししょう)の中に向かって、遊戯三昧(ゆげざんまい)ならん。” (無門慧開)

 

本当の「自由」というのは、活殺自在

 

活殺自在。
活殺の殺は、有無の「無」、色即是空の「空」に通じる。

 

つまり、ここでいう「殺」は、
殺す=空じる、捉われない、放れる、既定概念を捨てる 

 

権威を空じてしまえば、大自在を得る。

 

本日、この言葉を引用されたのは、
今の日本には、自由がないのではないか?という問いだった。

制度における自由ということではなく、心の自由、自由自在が大事なのではないか?という話。

 

今、世界で多くの人は、
Spiritual But Not Religious
ということをいっているのだそうだ。
無宗教型スピリチュアル層ということ。

心の豊かさ、深い精神性の追求が世界の潮流になりつつある、と。

 

師曰く、禅は宗教ではない。本当の心の自由のために、坐禅をするのだと。

 

心の自由のためには、権威を空じてしまえ。

権威と思っているのものは、自分でかってに権威としてしまっているに過ぎないかもしれない。

世間の目、社会からの評価、、、、。

 

少なくとも、自分の頭の中は自由になれるはずだ。

誰にとがめられることなく、自由に思考できる。

考えて、考えて、考えぬいて。

それで自分にとって本当に正しい選択とおもえるなら、行動にうつればいい。

 

本当の自由は、自分しか自分に与えられない。

世間に流されるな。

流されることもある。

でも、あれ?ちょっと違う、と思ったら、立ち止まろう。

 

違和感を放置するのは、自分で自分から自由を奪う事。

心の違和感も、身体の違和感も。

 

本当の自由は、自分と向き合うことでしか得られない。

そんな気がする。

 

「仏を殺せ」、物騒な言葉だなぁ、、とおもったけれど、なるほど深い。

自由とは、誰かに与えられるものではない、ということかな。

 

気が付けば、11月も半分過ぎている。

2022年もあと42日。

あらまぁ、、、今年もあっという間、、、。

時間を大切にしよう。。。

2022年の残り時間をどう過ごすかを決めるのも、自分。