『時間の終わりまで』 by ブライアン・グリーン (その3:第6章~終わりまで)

時間の終わりまで
物質、生命、心と進化する宇宙
ブライアン・グリーン
青木薫
講談社
2021年11月30日 第1刷発行 
Until The End of Time  -Mind, Matter and Our Search for meaning in an Evolving Universe (2020)


目次
第1章 永遠に魅惑 始まり、終わり、そしてその先にあるもの
第2章 時間を語る言葉 過去、未来、そして変化 
第3章 宇宙の始まりとエントロピー 宇宙創造から構造形成へ
第4章 情報と生命力 構造から生命へ
第5章 粒子と意識 生命から心へ
第6章 言語と物語 心から想像力へ
第7章 脳と信念 想像力から聖なるものへ
第8章 本能と創造性 聖なるものから崇高なるものへ
第9章 生命と心の終焉 宇宙の時間スケール
第10章 時間の黄昏 量子、確率、永遠
第11章 存在の尊さ 心、物質、意味 

 

さらに、昨日の続きで、(その3)として、第6章から。


第6章 言語と物語
人は、死の恐怖から逃れるために、物語を語ってきた。そして、物語を語るには、言葉が必要だった。動物の最初の言葉は、赤ちゃんと母親のコミュニケーションといわれるが、もともとは、「なき声」であったものが、言葉になっていった、という考えは、一般に受け入れられている。そして、言葉をつかって、仲間と語り、言葉を使って、集団となってきた。
あるいは、物語をかたることで、人生をシミュレーション、模擬体験しているとも言える。飛行機の操縦士がフライトシミュレーターで訓練するように、人間は物語で人生をわたりあるく訓練をしている、ともいえる、と。

 

トニ・モリスンの比類なく洗練された表現、として引用されている言葉がある。
”「人は死にます。それが人生の意味なのかもしれません。しかし人は言葉を使います。それが人生を測る尺度なのかもしれません。」”

言葉がなければ、語れない。。。

 

*トニ・モリスン(Toni Morrison, 1931年2月18日 - 2019年8月5日 )は、アメリカの作家、編集者で、アメリカにおける黒人文学の立役者。

 

第7章 脳と信念
ここでは、宗教や芸術の進化論的役割について。人間は歴史の中で、宗教や芸術をそだててきた。なぜ?宗教や芸術が生まれたのか。それは、進化的に必要だったから、というはなし。


”科学は客観的実在を探求するかもしれないが、われわれは心が施す主観的な処理を介してしか、その客観的実在にアクセスすることができない。だからこそ人の心は主観的実在を生み出すことで客観的実在を執拗に解釈しようとするのだ。”

という、一文が出てくるのだが、主観だか客観だか、、、どっちでもいいけど、どんなことにも解釈の尺度が必要ということだろうか。
宗教や芸術は、集団として生き残っていくために必要だった、尺度だった、という感じ。


第8章 本能と創造性
生き残りが本能だとすれば、本能として宗教や芸術が必要だった、という話。

ここでも、様々な人の言葉が引用されている。

 

フリードリヒ・ニーチェは「音楽のない人生など何かの間違いだ」と述べた。”
うん、これは、わかる。

 

スティーブン・ピンカーは「芸術はジャンクフード」と言った。”
うん?、これはわからん。


彼の狙いは我々の芸術体験を貶めることではなく、我々が重要だと位置づける対象の範囲を広げることにある、と言っているのだけど、、、ちょっと、共感しがたい表現。

スティーブン・ピンカー。まだ、『人はどこまで合理的か』を読んでいる最中だけど、かなり合理的なものの言い方をする人だ。芸術がジャンクフードとは、ちょっと、私は受け入れられない表現だなあ。。。ジャンクフードは、別に一般的であるという意味より、身体に悪い、、、という意味の方が私には大きいから。比喩的に言っているとしても、ちょっと違う気がする。

ピンカーの新作、まだ(上)しか読んでいないけど、どこか物足りなさを感じるのは、ドライすぎるからだろうか・・。

megureca.hatenablog.com

 

芸術や宗教は、集団を団結させるから適応に役に立つ。また個人が集団に適応するには想像力を整える必要がある。そして芸術は想像力を整えるのに役に立つのだというのが、本章の主旨。

そして、人間は、しょせん、粒子が詰まった袋。

以下の言葉も引用されている。

ジョージ・バーナード・ショーの作品に登場する途方もなく高齢の女性が言うように
自分の顔を見るために鏡を使うように、自分の魂を見るために芸術作品を使うのです」”


ジョージ・バーナード・ショーは、アイルランド出身の文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリスト。映画、『マイ・フェア・レイディ』の原作となった戯曲、『ピグメイリオン(Pygmalion)』の作者だ。上記作品は、本書の原注によると『思想の達し得る限り』という作品由来。

 

第9章 生命と心の終焉
宇宙にはいずれ終わりがあって、そのとき生命も心も消滅する、、、そんなとほうもない未来の話。
エドウィン・ハッブルによって、宇宙空間は膨張し続けていることが明らかになった。1000億年後、宇宙がずたずたになるまで膨張している。。。そのとき、私たち人間だって、地球上のあらゆる命、あるいは宇宙の他の生命体も消滅する。。。
そんな、先のことを言われても、、と。。そして、次章に続く。

 

第10章 時間の黄昏。
ブラックホールでさえ、いつかは消えていく。。。
ブラックホールはあらゆるものを飲み込む。アインシュタイン特殊相対性理論(E=mc2)によれば、ブラックホールが光子を飲み込めば、ブラックホールの質量はわずかに増えるはず。ベッケンシュタインや、ホーキングの検証によれば、ブラックホールには温度があり、放射をだしている。ブラックホールブラックホールなのは名前だけで、量子力学を無視した場合だけのことなのだ。

ブラックホールの温度について、次のような文がでてくる。

 

”月よりも質量の大きいブラックホールの温度は、宇宙をみたしているマイクロ波背景放射の現時点での温度である絶対温度で2.7度よりも低い。カクテルパーティーでのおしゃべりのネタに使えそうなこの関係は、まだ検証されていないが、、、”

おい!、だれが、そんな話、カクテルパーティーでするんやい!と、、、突っ込みたくなる。


とにかく、今、ここにこうして物を書いたり、読んだりしている私たちの存在は、たしかに、存在している。今このとき存在している。宇宙時間で言えばほんのほんの、、、一瞬でしかない、ということ。

我思う、ゆえに我あり」というより、「我思ったと我思う。ゆえに我あったと我思う」なのだ、と。


第11章 存在の尊さ
だから、われわれは儚い存在。この一瞬が稀有である。
いつか終わりが来るということに気づくこと。それでも、今ここを生きていることを認知する事が、道徳的感覚につながっていくのだ、と。
そして、語り継ぐために人は物語をつくる。。。

 


物理学者が、一生懸命、一般の人にもわかりやすく書いた一冊なのだろう。が、はたして、わかりやすかったか?と言われると、わかりにくい。。。。
それは、やはり、物理の知識ということではなく、さまざまなレトリックがすぐさま頭の中でつながるかどうか、、、という読み手の力量による為のように思う。

 

本書の中でも、文学、芸術、科学、様々な事例が説明なしにとりあげられるので、原注を参照しないと、理解しきれない。原注だけで70ページある。そりゃ、、、なかなか読み進まないわ、、という感じ。様々な著名人の言葉が引用されているけれど、その人のことを知らなければ、その言葉の背景がわからず、言葉の深い意味が読み取れない。

 

また、本人は洒落のつもりでい言っているのかもしれないけれど、知識の浅い私にとっては、本音だか洒落だかも、わかりにくい。

本音か洒落かわかりにくい文章というのは、小林秀雄に似ている。読みにくい。

両者共通点は、膨大な一般基礎知識の量、という気がする。

 

なんとも、難儀な本だったけれど、ぼんやり理解したのは、宇宙を考えるということは、すなわち人間を考えるということ。そして、宇宙も人間も、量子物理学の法則からは逃れることができないということ。

 

あ~~、なんだか、しんどい本だったけど、読んでしまった。

どうにか理解してみたいという好奇心が、この本を未読で終わらせたいという思いを上回った。

うん、やっぱり、面白い本だった。

きっと、半分も理解できていないけど。

600ページ越えは、やっぱり、達成感あり。