禅の言葉: 人工知能と禅

人工知能と禅

 

今朝は、言葉というか、禅と人工知能との関係性の話。

 

AIアプリの開発者、三宅陽一郎さんの書籍『人工知能のための哲学塾』(東洋哲学編)から紹介いただいた。


三宅さんは、
” 人間の知能も人工知能も同じで、「知能は社会の中で形成されるもの」”
と言う。
ただ人工知能は、人工的に作り上げられた知の構造(フレーム)を持っており、それに縛られてそこから抜け出すことができない。
そこを抜け出せるのが例えば禅で、東洋の知能モデル。


西洋哲学の世界では、
個から全体へ、物から精神へと積み上げる構築主義で世界を把握する。

一方、東洋哲学の世界では、
混沌(荘子)、タオ(道教)、空(禅)、阿頼耶識大乗仏教)等の全体世界をまず把握し、そこから部分(個)に下りて行くように智が働く。


人間の社会とのかかわり、自己と他者、世界とのかかわりをどう捉えるかで、西洋哲学と東洋哲学には大きな違いがある、という話。

 

そして、人工知能は、西洋的な構築主義で開発されたため自己完結的な構造(フレーム=限界)をもつが、そこから解放された真の世界に近づくためには、世界と深く溶け合い、そこから個別の智に下りていく東洋的な知のステップを踏むことが必要ではないか、と。


それにより人工知能は、今後とも人間を超えられないものの、さらに人間に大きく近づくことは可能で、次の時代には東洋哲学が人工知能に新たな息吹をもたらすことが可能である、と。
 
東洋と西洋の智恵を併せ手考えることで、次の時代の人工知能の開発に新しい息吹をもたらすとともに、国内外の色々な局面で、世界が期待する新たな価値創造に貢献していくことが期待されるのではないか、と。

 

西洋=色即是空  東洋=空即是色
色:現実
空: 全体

 

西洋と東洋とでは、発想プロセスが異なる。
どちらがいいという言ではなく、両方をバランスよく取り入れて考えられるのが、日本人のよいところなのではないか、というお話。

 

どうなのだろう。今の日本は、空即是色よりも色即是空に近いような気もする。個のとらえ方は、時代とともに変化してきたと思う。

 

何事も、フレームで考えることは効率的であるけれど、フレームそのものに思考の制約が生まれてしまう。であれば、フレームでなく全体から考える、という発想が大事なのだろう。

全体把握というのは、そんなに簡単なことではない。無になるのも全体をとらえるための修行の一つと考えると、たしかに、わからなくはないけど。

無になる、というとこれまたむずかしいのだけど、思考のフレームを取り除くということに、坐禅は効果的な気もする。

 

全体をとらえる。

それは、人工知能に限らず、なんでも大事だ。

先日の「応無所住 而生其心」もそうだけど、やはり全体が大事なんだ。

megureca.hatenablog.com

 

でも、いきなり全体を把握する事なんてできないから、毎日コツコツと小さくつみあげていくのだろうな、、、、という気がしてきた。

 

毎日の小さなコツコツが、全体を作っていく。

どんな全体を作りたいのか、それを忘れないってことなのか。

ブレない軸、みたいなもの。

 

フレームが限界をつくることがある。

だからこそ、フレームで思考したことで満足するのではなく、さらにその外側も一緒に考える。

全体を考える。

 

今日のお話は、全体を考えなさい、ってことだったのかな。

全体を把握するには、時々視点をずらすことが必要だ。

そう、そのリフレッシュのために、坐禅の時間があるような気がする。

 

執着を解き放とう。

そうそう、師走だし。

全体レビュー強化月間、かな。