『三四郎』 by  夏目漱石

三四郎
夏目漱石
岩波文庫
1938年5月15日 第一刷発行
1990年4月16日 第64刷改版発行
2017年5月15日 第104刷発行

 

言わずと知れた、夏目漱石三四郎』。何十年ぶりに読んだか、、、あるいは、読んだことがなかったか、、定かでない。柔道の「姿三四郎」じゃない。夏目漱石三四郎。もしかすると、、、一冊通して読んだことはなかったかもしれない。色々なところで漱石代表作の一つとして取りあげられたり、TVドラマ化されたりしているので、内容はなんとなく知っているけれど、、、という感じかも。

 

今では、多くの出版社から出されている。あえて、岩波文庫の『三四郎を図書館で探して読んでみた。というか、kindleで音読したのだけれど、やっぱり、、、活字でよみたくなって、借りて読んでみた。やっぱり、活字がいい。活字で読むなら、紙がいい・・・。

 

表紙裏の説明には、
「大学入学のために九州から上京した三四郎は東京の新しい空気の中で世界と人生について経験を重ねながら成長してゆく。一見何の変哲もない教養小説と見えるが、ここには一筋縄ではいかぬ小説的企みがたっぷり仕掛けられているのだ。」と、解説者の言葉がある。

 

小説的企みを何として読むかは、 何を企みと感じるかは人それぞれだろう。深読みすれば、色々かんがえちゃう。でも、普通に一人の青年の成長と失恋の物語、とおもって楽しく読んだっていいだろう。
あれこれ考えず、三四郎のまっすぐで正直な心に思わず、よろしい!と思いつつ、おい!がんばれ!と突っ込みたくなるような感じ。普通に楽しいといえば、楽しく読める。せつないけど。

いいんだよ、本なんて、好きに読めば!と、つっこみつつ、楽しく読んだ。

 

三四郎』の初出は、朝日新聞の連載。1908年(明治41年)のことだ。つまり、100年以上前のお話。それが、令和の今でもこうして古びることなく、たのしい物語として読めるのだから、ほんと、夏目漱石って、すごい。。。

 

おおよそ、ご存じと思うが、以下ネタバレあり。


主な登場人物

小川三四郎:23歳。九州の地主の息子。この秋に大学生に。(当時の大学は秋始まり)

里見美禰子(みねこ)三四郎が東京で初めて気になった美しい女性。聡明で美人。

里見恭助:美禰子の兄。美禰子と恭助には、もう一人の兄がいたが、既に他界。その兄が、広田先生と仲良しだった。

広田先生:高等学校の英語の先生。三四郎が上京する電車の中で出会い、一緒に柿を食べた人。富士山を褒めるものの、「富士山は天然自然に昔からあった。日本人がすごいわけではない」というようなことを言う男。博識。

佐々木与次郎三四郎の同級生。人を食ったようなところがあって、世渡り上手。広田先生の宅に居候していて、三四郎は与次郎を通じて再び広田先生にであうことになる。

野々宮宗八三四郎の母が、知り合いの従兄だから東京にいる間何かあったらよろしく頼むがいい、といって手紙に書いてきた人。理科大学の光学研究者。広田先生とは、アカデミア同士で仲良し。三四郎の7歳年上。

野々宮よし子:宗八の妹。美禰子と仲良し。

原口:画家。美禰子の肖像画を描く。広田らとも交流がある。

 

物語は、主人公の小川三四郎が大学入学のために一人上京している電車の中の描写から始まる。

都会をしらない田舎の青年が、周囲の乗客の様子をチラチラ見ながら田舎の事をあれこれおもいつつ、これからの生活の事をワクワクしながら電車に乗っている感じ。名古屋どまりだった電車を降りた三四郎は、車内で「一人では怖いから宿まで案内してくれ」と声をかけてきた女と一緒の宿に泊まる羽目になる。そして、女をしらない初心な三四郎は、女と同じ部屋に宿泊しながら、かたくなに一人で朝を向かえた。女は、三四郎との別れ際「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と三四郎に言ってにやりと笑った・・・。

一体、女はどういうつもりだったのか。。。。

 

気を取り直して、名古屋から新橋に向かう電車にの三四郎。そこで、居合わせたのが広田先生だった。そのときは、広田の正体を知らないままにいるのだが、後に、学友となった与次郎の紹介で、広田が高等学校で英語の教師をしていることを知る。

東京での生活をはじめた三四郎は、大学の授業に熱中しようとするのだが、期待していたほど授業が面白くない。与次郎は、三四郎にそんなにコンをつめて勉強してもたいしたことはない、図書館の方がよっぽど役に立つ、と助言する。そして、図書館で過ごす時間が増えていく。自由な時間が増えたある日、三四郎は野々宮に挨拶に行ってみようと思いつき、大久保の野々宮の家を訪れる。野々宮は、快く三四郎を迎え、その後三四郎との交流が続くこととなる。三四郎より7つ年上で、研究に熱中している野々宮の生活をみて、三四郎は、学業を終えた後の自分の将来はどうなっているんだろうか、などと考えたりもする。

時々母から届く手紙をうっとうしくおもいつつも、何度も読み返したりするあたりが、素朴な青年な三四郎

 

広田先生のところに居候していた与次郎は、ある日、広田先生と共に引っ越すことになる。三四郎はその引っ越しを手伝いにいく。そこで、一人の女性に出会う。それが、里見美禰子。以前、野々宮のところに挨拶に行った際、見かけた女性だった。また、ちょっと体調を崩して入院していた野々宮の妹、よし子を見舞いに行った際に病院で「15号室はどこですか?」と言葉を交わしたのも、この美禰子だった。三四郎は、とうとうその美しかった女性と言葉を交わすことになる。

そして、凛とした美禰子は、野々宮、広田、与次郎を通じて何度となく三四郎と時間を共にするようになる。

そして、美禰子の立ち振る舞いに、もしかすると自分のことを好いてくれているのか、、いやいや、野々宮のことを好いているのか、、、と、三四郎は恋に悩むようになる。美禰子がくちにした「迷える子(ストレイ・シープ)」という言葉を、何度もノートに綴ってみたり、、。


そんなある日、三四郎は、与次郎に貸した20円を、美禰子から返してもらってくれ、と与次郎に言われる。それは与次郎と広田先生が引っ越しの際に必要だったお金を野々宮に用立ててもらったことから発生した借金で、広田先生が野々宮に返金するために与次郎に託した60円を、与次郎が競馬で使ってしまったのが発端だった。
野々宮に返金できなくなって困ったと、与次郎が三四郎に言ってきたのだ。三四郎は、母からの仕送りのお金を与次郎に用立ててやった。でも、それを与次郎は返せなくなったというのだ。三四郎三四郎で、家賃の支払いをするのにお金が必要だ。与次郎がかえしてくれないのなら、、と、与次郎の言葉に従って美禰子のもとを訪れる。美禰子は、三四郎に30円を渡す。

 

借金をしている間は、美禰子とつながりをもったような気になっている三四郎。返済してしまえば、その関係は途絶える。実家から再度送金してもらって、返済することも可能になった三四郎だったが、ずるずると、返金を遅らせる。

いつまでも借金をしているのは嫌だから、美禰子にお金を返そうとする三四郎だったが、与次郎は「向こうでは喜ぶよ」という。人間はだれかに親切にしていた方が善い心持だから、美禰子を喜ばすためにもそのまま借りておけ、というのだ。


返金するでもなく、これといった用もなく美禰子の家を訪れ、「あなたに会いたいからきたんだ」という三四郎に、美禰子はあくまでも冷静。なんとなく、三四郎に気があるそぶりな美禰子。でも、野々宮の気を惹くために三四郎を利用しているようにも感じる三四郎・・・。

 

そんな葛藤をかかえつつ、三四郎は、与次郎の「広田先生を大学教授に推薦する」活動に巻き込まれていく。結局、広田先生は大学教授に選ばれることはなかったのだが、あくまでも淡々と冷静であった。

 

そんな広田先生をめぐるごたごたの中、与次郎から、美禰子の縁談が決まったらしい、と突然聞かされる。

 

それは、事実だった。三四郎が耳にしていたのは、よし子の縁談で、どうやらよし子の縁談相手が、美禰子と結婚することになったのだという。よし子が縁談に乗り気でなかったので、美禰子が次の候補になった、という訳だった。三四郎は、その話をよし子から聞くこととなった。美禰子の縁談は、いよいよ事実だった。


与次郎は、美禰子は尊敬できない人のところへは嫁に行かない人だから、君では物足りなくて、君には夫になる資格はなかったんだろう、などという。

 

三四郎は、美禰子に借りていた金を返そうと、美禰子にあいにく。留守にしてた美禰子は教会にいっているという。三四郎は、教会の外で美禰子が出てくるのを待った。三四郎を見つけた美禰子は、「どうなすって?」と何事もなかったかのように聞く。金を返す三四郎
そして、「結婚なさるそうですね。」と聞くと、「ご存じなの」といいながら遠い眼をする美禰子。そして、
われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」とつぶやいた。


結局、野々宮も、三四郎も、美禰子にふられたようなものだった。


最後、美禰子を描いた原口の作品をみんなが鑑賞している場面で物語は終わる。原口が描いた美禰子の絵は「森の女」というタイトルが付けられていた。
与次郎に、「どうだ森の女は」と聞かれた三四郎は、「森の女という題が悪い」
といって、口の中で、迷羊、迷羊と繰り返した。

 

THE END

 

美禰子は、本当は野々宮のことが好きだったんだろうか。最後の美禰子の言葉「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」は、旧約聖書の中の詩句。

聖書の中でその「愆」とは、イスラエルの王ダビデがその部下ウリヤの妻パテセパと通じ、パテセパを奪うためにウリヤを戦士させたこと。

 

三角関係に敗れた三四郎、、、ということか。

 

登場人物の言葉の端々に、当時の日本の日常が垣間見える。1908年の作品だから、日露戦争後の発表で、広田先生は日露戦争を批判するようなことを口にする。女性の生き方には制限があったこと。天長節天皇の誕生日)は、学校をあげてのお祝いが当たり前だったこと。などなど。

 

深読みすれば、もっともっと、掘り下げていろんな話題が織り込まれている。それが、冒頭に解説者の言葉にあった、「小説的企み」なのかもしれない。

 

三四郎は、これから成長していくんだろうな、とおもうけれど、結局失恋してしまった迷える羊で終わるあたりが、ちょっとセツナイ。

でも、やっぱり、読み応えがある。293ページの小説で、すごく長いわけではない返れど、読み応えたっぷり。

読んだ後の充実感在り。

 

私は、三四郎のように若くはないけれど、ちょっと、昔を懐かしくなるような気持になる。大学生の時に読んだら、また、ちょっと違う気持ちだったろうな。

 

夏目漱石は、繰り返し読んでも新たな面白みがある。

面白い。

 

やっぱり、読書は、楽しい。