『中国の論理 歴史から解き明かす』 by  岡本隆司

中国の論理
歴史から解き明かす
岡本隆司
中公新書
2016年8月25日 発行

 

とある勉強会の課題本だったので、図書館で借りて読んでみた。

 

表紙の裏の説明には、
”同じ「漢字・儒教文化圏に属するイメージが強いためか、私たちは中国や中国人を理解していると考えがちだ。だが「反日」なのに日本で「爆買い」、一「つの中国」、「社会主義市場経済」など、中国では矛盾がそのまま現実となる。それはなぜかーー。 本書は歴史を紐解きつつ、目の前の現象を追うだけでは見えてない中国人の思考回路をさぐり、切っても切れない隣人と付き合うためのヒントを示す。”
とある。

 

正直、私の中の中国のイメージは、あまり良いものではない。私はサラリーマン時代、仕事で中国による技術盗用事件に巻き込まれたことがあり、会社として数年にわたり裁判になったことがある。最後は勝訴したけれど、裁判なんて関わらないで済むなら関わらない方がいい。犯罪は、その犯罪を誘発する隙を作った方にも責任はあるのかもしれないけれど(機密管理ができていなかったとか)、やっぱり、私には中国人組織に対するうらみつらみ、、、みたいなものはゼロにならない。一方で、中国人一人一人をみれば、もちろん善い人も知っている。(というか、害のない人・・・・?!)仕事上でも、プライベートでも普通に常識的と思える人も知っている。でも、彼らのことを本当に理解してるかといえば、やっぱり日本人の他の友人たちに対する理解程は理解できていないかもしれない。もちろん、付き合いがそれほど深くないということもあると思うけれど。

 

本書は、私のように中国人ってどうにもとらえどころがわからない、、、と思っている人には、確かに中国人発想理解のヒントになるかもしれない。善悪の問題ではなく、彼等にとっての意思決定理論の背景というのか、「revisionism(修正主義)」と呼ばれる中国政府の基本原則というのか、、、なんとなく、あぁぁ、、と。納得するわけではないけれど、そう考えると仕方がないのか、、、と思える気がしなくもない、、、って感じ。著者のスタンスも、別に中国を擁護しようというのではなく、中国と付き合っていると不愉快な事も多い、といいつつ、なぜそうなのかを説明しようとしているところがいい。中国と付き合って不愉快なことの一つに「言行が一致しない」といっている。まさに、「この嘘つき!!」といいたくなることがあるから、なんとなく中国を敬遠してしまうのだ。本書は、そういう感情を否定せず、なぜ中国人の行動はそうなるのかを中国の歴史的背景から説明している。
中国を毛嫌いしていたところが無きにしも非ずの私にも、結構なるほど、と思える一冊だった。ま、だからといって、中国と積極的にかかわろう、、、とはやっぱり思えない。でも、仕事上必要な人も多いだろう。そういうひとには、なかなか参考になるお薦めの一冊かもしれない。

 

目次
Ⅰ 史学
1 儒教とは何か
2 史学の起源
3 史学の枠組み
4 史書のスタイル

 

Ⅱ 社会と政治
1 エリートの枠組み
2 貴族制
3 科挙体制

 

Ⅲ 世界観と世界秩序
1 「天下」という世界
2 「東アジア世界」の形成
3 「華夷一家」の名実

 

Ⅳ 近代の到来
1 「西洋の衝撃」と中国の反応
2 変革の胎動
3 梁啓超 


Ⅴ 「革命」世紀
1 あとをつぐもの
2 毛沢東
3 「改革開放」 の歴史的位置

 

まず、私たち日本人が中国に対してとまどうのは、「二元構造」だという。矛盾する二つを同時に存在させてしまう中国人特有の「理屈のこねかた」がそこにある。その背景にあるものをひもとこう、というのが本書の狙い。

その視点の一つが、史学。中国の歴史をふりかえれば、儒教が思想に大きな影響を与えている。儒教経書をもとに「諸子百家」も発展した。儒教は、神がいるわけではない。儒教は、「人間社会の現実に即している」というのが最大の特徴。そして、その事実から、儒教は超越的なところにはしらず、「中庸」が最大の徳となる。

この「中庸」であることを是とすることこそ儒教であり、儒教の立場は「自分本位」であることから、常に「自分という存在」を中心に考える自分が中心になると、外界すべてを上下の関係で整理しようとする。そして、中国の歴史そのものが、自己を中心として書かれる、あるいは、書き換えられる・・・。客観的な原則より、今の自分にとって都合の良い解釈で、中国の史が作られていく・・・。
中国で言うところの「正史」というのは、書いてあることが正しいのではなく、「認識基準」が正しいのだそう。

つまり、、、日本人をはじめとする世界の多くの人は、史実の書き換えに正当性はみとめないのだが、中国にとっては、そのときの認識基準で書き換えられるのが「史」なのである。書き換えて何が悪い!という理屈なのだ。建前・観念が史実・現実をも動かしてしまうのが中国だというのだ。

 

なるほど。。。。「中庸」であるためには、認識基準によって、史実も変わる・・・。どう考えてもおかしなことのような気がするのだが、そのとき自分に都合の良いことが絶対の社会にずっといると、それが当たり前になっていくのかもしれない。

 

一方で、著者は、イデオロギー・理論を史実認識の前提にするのは、中国以外の世界でも見られることだともいう。水戸の『大日本史』やマルクス史学、現代の世界システム論なども、その時々のイデオロギーの影響は免れない。それでもやはり、中国以外の国々では史実第一主義の方が人々には親和性があったので、中国の様にはならなかった。儒教の社会への浸透の仕方の違いがあったのだろう。


儒教の歴史背景を踏まえたうえで、中国の政治体制、世界とのかかわりについて紐解いていくと、常に選ばれた者の正当性を守るための社会的仕組みが回ってきたかのように見える。科挙制度は、超エリートがエリートであることの正当性を支持し、漢人による中華文明は、外夷に比べて漢人優位であることを示すために、朝廷の絶対性を支持した。

 

自分たちが世界の中でも常に優位であり、西洋からやってきた技術ですら、もとから中国のものであったのだといういうことで「こじつけ」をする。海外との貿易も、相手のよいものを取り入れるのではなく、あくまでも皇帝への貢物として受け取る、というスタンス。朝貢貿易だ。貢物は皇帝のものだから、中国のもの。はじめから中国のものということになる。国外からの新しいものを新しいものとして受け止める人の方が圧倒的少数で、多くの人は、「はじめから中国のもの」と信じたほうが居心地がいいので、それが真実であるかのような社会になっていく。

絶対的権力がある一方で、そうではない庶民はいつまでも庶民。権力を持たない人がいるから、権力をもつひとがひきたつ。。。それが、いまでは「格差」をさらに広げている。

 

権力者は、つねに「上から目線」であることで、さらにその権力を絶対のものとする。習近平の「上から目線」は、権力者がつよければつよいほど、そうではない庶民との格差ができ、それがさらに権力を強める。現在の「二元構想」。

 

本書の最後の方は、近代・現代の話。だいぶ身近な話になってくるのだが、尖閣諸島の問題なども、中国が中国の領土だといったら、それが歴史的事実かどうかは中国にとっては、問題ではない、、、、という中国の屁理屈がまかり通るのが見えてくる。

 

いやぁ、、、どうやって、そんな屁理屈で塗り固めた人たちと付き合えるというんだ???

 

著者は最後に、理不尽に屈する必要はあないけれど、かれらの論理にそれなりの洞察と理解が無くては、感情ばかりで動くことになりかねない、と言っている。

 

そう、本書は、感情的に拒否反応を示す前に、なぜ中国の行動はこうも理不尽なのか、相手の理論で考えてみるためのヒント、が提供されている。

 

人間関係も、国同士の外交関係も、相互理解が第一歩。自分の理屈では許容できない理屈であっても、相手が何故そう考えるかを理解しようとする必要がある、ってことなんだろうな。

 

いやぁ、、、でも、やっぱり、それを理解したうえでも、難しいな・・・。逆に、全ての中国人が本書にあるような「儒教の影響を強く受けた思想」で行動するのかもわからない。

個人におとすと、それはもう、人それぞれだろう。

 

日本人は、○○である、と一言で言いきれないように、中国人は○○である、という言のも難しい。一個人で付き合うには、あくまでもその人、個人と向き合うべきで「儒教思想の中国人」なんて思わなくていいのだと思うけれど、国として、組織として付き合うときには、「儒教思想」が原点にあることを頭の中に置いておくといいのかもしれない。

 

課題本でなければ、手にしなかった本だな。

本書を読んだからといって、中国が好きになるわけではないけど、なるほどな、とは思える。

実際の勉強会は、これからある。

どんな会になるのか、ちょっと楽しみ。