高校生のための法学入門 法学とはどんな学問なのか
内田貴
信山社 民法レクチャーシリーズ
2022年6月25日 第1版第1刷発行
著者の内田さんは、1954年大阪生まれ。東京大学法学部卒業。現在、東京大学名誉教授・早稲田大学特命教授・弁護士。2007年から法務省参与として再建法改正と呼ばれる民法の大改正にあたったとのこと。
目次
第1章 法学とはどんな学問なのか
第2章 いま法学(民法学)をどう学べば良いか
第3章 質疑応答
内容は、2021年6月12日に行った高校生へのレクチャーの記録。参加したのは、会場で開成高校の生徒、オンラインで筑波大学附属駒場高校の生徒、そして法科大学院生1名だったとのこと。
感想。
面白い!これは、良本!
たまたま目に付いたので借りたのであって、大して期待していなかったのだけれど、とても面白かった。はしがきに、「通常の法学入門で書かれていることとは内容がまるで異なる」と内田さんが書いているのだが、本当にその通り。法律の中身が書いてあるのではない。或る意味、法律に関する歴史書のようなモノでもあり、法律を学ぶというのはどういう意味があるのか、ということが、書いてある。
そして、第3章の質疑応答の内容がとても高度。高校生の質問なのか?!と驚いてしまう。第 1章、2章のレクチャーの合間、内田さんの問いかけに生徒たちが応える場面もあるのだが、それもすごい。そんなこと、知ってるんだ!!と、私が50歳を過ぎてから学んだようなことを、生徒たちがポンポンと口にする。法の話とは別に、生徒たちの発言から日本の未来も明るい!とおもえる感動もある。
全208ページのうち、第1章で半分以上。法学とはどういうことなのか、ということが法律が作られた歴史から語られている。法律の中身ではなく、日本国憲法が作られるに至った歴史的背景や、それに奔走した人々の思考とか。
説明の中で面白いと思ったのは、憲法をふくめて法律をつくるときには、「法の継受」ということがおこり、それは言語変換つまり「翻訳」のような工程が含まれるという話。
「法の継受」というのは、文化や言葉の垣根を超えて法律が移植されるということ。明治時代に日本の憲法を作った人々は西洋からの法を継受した。最初は、模倣のようなモノだったかもしれないが、それが日本文化、日本語のなかで人々にわかりやすく解釈され、翻訳されていくことで、日本の法律になっていく、っていう話。言語の翻訳でも、その外国語に相当する概念が日本語にないと、翻訳語を新しくつくらなくてはいけない。例としてキリスト教文化のある西洋における「society」を日本語にどう訳したかという話が出てきた。
幕末に海外の法律を学んだ西周は「相生養の道」といい、福沢諭吉は「人間交際の道」と訳した。いまでは、「society」を「社会」と訳すことが一般的であるけれど、もともとは人と人とのかかわりを意味した。だから、コロナ発生時に海外で「social distance」といったら海外では人と人との接触を減らすという意味ですんなり使われたが、日本では「社会距離」となって、なんだかよくわからない言葉になってしまった・・・・と。
言葉本来の意味がそのまま反映されていないと、翻訳したときに十分に元の意味が伝わらなくなってしまう、そのようなことが法律の世界でも起こりえる、という話。
「江戸っ子」という言葉を、「江戸の住民」と訳しても、本来持っている「べらんめぇ風」な様子は伝わりにくい。文化と言葉は切り離せない。
第三章で、生徒が「言語の概念を抽象化して考えていくという点で、言語学と法律学はちかいのか?」という質問をする場面があり、「ソミュールの言語学を学ぶことがあるから、概念のズレ」ということに興味あった、と言っている。今どきの高校生は、ソミュールの言語学を高校の授業で学ぶのか、と、、、感動。
この質問に、内田さんは、「法的概念も言語だから、全体構造のどこにどの言葉を当てはめるかということだけで法を継受すると、言語のズレのように、法学全体としてのズレが生じるかもしれない」と言っている。
法律を職業とする人は、「事実」を「法という仮想空間」に移管して物事を整理する。それもまた、翻訳作業と似ているのだという。
明治時代に日本の憲法を作ろうとした歴史の話では、板垣退助が「市民平等」の必要性を感じた逸話が面白い。
板垣はもともと土佐藩の上級武士階級の出身で、官軍を率いて幕府軍を追い詰めた。最後に幕府軍の中心であった会津藩を攻めることになった。兵を進めて会津の国境まで来た。そしてここで考えてみるに、
「会津は全国屈指の雄藩である。政治はうまくいってるし、民は富んでいる。もし武士も農民も心をひとつにして全力で自分の国(会津藩)に尽くそうとすれば、たかが3000人未満の官軍でこれを打ち破ることができるだろうか」
と思った。
しかし、官軍がその国境の臨むと、なんと驚いたことか、一般の人民、農民たちは妻子を伴い、家財を抱えて四方に逃げて行った。一人も自分たちと戦おうとする者がいない。のみならず、しばらくすると戻ってきて、官軍のために用を足して、駄賃をくれと言って恥じることもない。板垣は何ということだ、とショックを受けた。
これをなんとかしないと外国から攻められた時、日本国民はみんな逃げていくぞ、と危機感を持った。日本の国を守るために命をかけるような国民を作るには、どうすればいいのか?
武士は会津城に立てこもって命懸けで戦っている。農民は逃げる。要するに武士と農民の身分の差があるからこれがいけないのだ。これをなくして「四民平等」みんな等しいという国を作らなきゃいけない、というのが板垣退助の発想で、そこで「自由民権運動」に立ち上がった。
という話。
なるほど。。。
そして、「国民」をつくる、という概念が生まれてくる。
福沢諭吉が、日本が西洋の法律を日本に持ってきたとき、そのために海外に留学した人々は東洋文化をよくよく理解していたことがよかった、と語った本『文明論之概略』が紹介されている。
穂積陳重(ほづみのぶしげ 1855~1926)らの留学生は、東洋の教養をみっちり仕込んでから西洋に行ったので、西洋の法概念の一つ一つを、儒教でいえばどの概念に対応するのかということを考えながら理解した。その結果、法律用語の翻訳にあたっても、自分たちで翻訳語を作り出すことができた。それが日本にとって幸運だったのだ、と福沢諭吉が語っている。
福沢諭吉の文章を現代語に直すと、
「今日の西洋の学問を学ぶものは、少し前まではみんな、漢学を学ぶ書生だった。ことごとくみんな、日本の神様仏様を信じていた。だから西洋文化を学ぶ前に完全に東洋の文化を学び、東洋の教養を身につけていた。そういう体ができていた。そこに西洋のことを学ぶもう一つの体がやってきた。一人の人間が二つの人生を生きるかのように、また一人の人間が2つの身体を持っているかのようである。」と。
真っ白なキャンパスで新しいことを学ぶというのも大事だけれど、既にある世界に新しい概念を重ね合わせる学び方というのは、時としてすごい武器になることがあるというのは、わかる気がする。
本書は、法律に関する本だけれど、日本と世界の歴史背景を理解していないと、どうやって日本の法律がつくられ、そこにはどんな意図があったのかがわからない、ということが見えてくる。そして、それを理解したうえで、これから先の未来の法と向き合い続ける必要があるということ。
法律にそれなりに理解をもつ「リーガル・リテラシー」のある人を増やすというのは、社会にとって意味あることだというのが、この本を読むと伝わってくる。
弁護士という職業だけでなく、公務員であれ、ビジネスマンであれ、リーガル・リテラシーがあるというのは、法律という言語の仮想空間で物事を考えられるということであり、誰にも必要な教養なのだということが伝わってくる。
別に、弁護士になるのではなくても法律を学ぶって意味ある事なんだなぁ、と思った。
実際に、会社で仕事をしていると、通常の生活では関わることのない法律に関わることがある。下請法とか、親書法とか、、、。知らずに、ついうっかり法に抵触する事って意外とある。ただ、それが大事にいたらないから気が付かないでいるだけ。身近なところでは、道路交通法だって、法だ。信号無視をしたことが全くない人なんていないだろう・・・。
リーガル・リテラシーを持つということと、ノブレスオブリージュはセットだ、という話しが第3章の質疑応答の中で出てくる。
以前、官庁の友人が、「国立大学に安い学費で学ばせてもらったのだから、国に何かを還元しないと、と思って国家公務員になった。」と語っていた。私には、まったくない発想だった。世の中、そういう風に考える人がいて、公務員になる人がいて、国がなりたっているのか、、、、。
公務員になることだけが国に貢献する道ではないけれど、ノブレスオブリージュを若いころから自覚するって、すごいな、って思う。本来エリート教育って、そういうことなんだろう。
教育を受ける権利だって、憲法で定められている。
意識しないだけで、私たちの生活は法律で守られているのだ。
ほんと、面白い本だった。
学ぶことの意味を考えさせられる。
これは、いわゆるエリート校、進学校に通う高校生に、是非読んでほしい。
勉強するということの深い意味が、伝わってくる。
また、同世代の人が、第3章にでてくる中身の濃い質疑ができるということにも、刺激を受けるのではないだろうか。
法を理解し、わかりやすく伝える。それも法を学んだもののノブレス・オブリージュだな、と思う。
うん、面白い本だった。
高校生の時に出会っていたら、もしかしたら法学部に進んだかもしれない。。。