『NHKさかのぼり日本史 ⑤幕末 危機が生んだ挙国一致』 by  三谷博

NHKさかのぼり日本史 ⑤幕末 危機が生んだ挙国一致
三谷博
NHK出版
2011年12月30日 第1刷発行

 

昨日に引き続き、今回は、⑤幕末 危機が生んだ挙国一致

megureca.hatenablog.com

 

著者の三谷さんは、1950年広島県生まれ東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。専門は日本東アジア近代史。文学博士、とのこと。 

④では、明治維新から大日本帝国憲法が出来るまでを、大久保利通伊藤博文の活動を通じてみてきた。⑤は、さらにさかのぼって、ペリー来航から王政復古の大号令まで。王政復古から第二次長州征討、桜田門外の変、ペリー来航と徳川幕府が権力を失っていく過程。

 

表紙裏には、
”歴史には時代の流れを決定づけたターニングポイントがあり、それが起こった原因を探っていくことで「日本が来た道」が見えてくる。
ペリー来航を始めとする西洋列強の圧力・それはかつてない危機の意識を人々にもたらした。1867 → 1866年 → 1860年 → 1853年の日本史上最大の”革命期”を活写する”、と。

ターニングポイントは、

1853年 ペリー来航 (高圧的なアメリカ)
1860年 桜田門外の変 (井伊直弼、登城直前で暗殺される)
1866年 第二次長州征討 (幕府軍に駆り出された武士は戦闘意欲なく惨敗)
1867年 王政復古の大号令 (スローガンは、「神武創業の始にもどす」)

 

著者は、「はじめに」で
”なぜそうなっていったのかは、「尊攘派」の「討幕」の運動だけを見ていては理解できない。彼らが共通に西洋に対する危機意識を持ち、連邦国家の日本が一つの国としてまとまる必要、つまり「挙国一致」を目指していたことが分かる。彼らは日本を救うため「公論」と結集の核を求めた。「王政復古」はその模索の結果だったが、彼らの課題がそれで完成したわけではない。”と述べている。

まさに島崎藤村『夜明け前』で、半蔵が悶々としている時代。それまでの藩としての各国が、日本という一つの国にならねば、と思い始めた時代。でも、幕府はもうあてにならないし、、、そんななかで、国学も流行っては廃れていった。 やはり、時代背景が理解できると、『夜明け前』ももっと深く読めるかもな、、、と思った。

 

うん、なかなか読みやすい。幕府がだめだからって、簡単に天皇中心、ってわけにもいかなかった時代。でも、国が一つになって戦うべき相手がいると、共通目的をもつことになり、それなりの方向へ収束していく。完全ではないにせよ。無血開城もすごいけれど、要するに国内でこれ以上争っている場合じゃないっていう危機感があったのだろう。
江戸幕府の衰退。勉強になる一冊。

 

目次
第1章 王政復古・維新の選択
第2章 長州征討・新秩序の模索
第3章 桜田門外の変・幕府専制の限界
第4章 維新の原点・ペリー来航

 

歴史の流れを覚書。


第1章 王政復古・維新の選択
1867年 王政復古の大号令 の前に、その年にどどど、、、っといろんなことが起きている。

薩土盟約
薩長同盟薩長出兵盟約)
倒幕の密勅
大政奉還
王政復古の大号令

そして、
1868年 鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争起こる)
五箇条の誓文
奥羽越列藩同盟成立

1869年 版籍奉還
1871年 廃藩置県

と。

王政復古とは、天皇を中心とした政治体制を作り直すこと。これを中心的になって進めたのが、岩倉具視。岩倉は、下級の公家出身だったけれど、孝明天皇の近習に抜擢されたことで、朝廷と幕府との和解に奔走し、天皇の妹・和宮と将軍徳川家茂との結婚を成し遂げる。しかし、これが、幕府に敵意を抱く尊王攘夷派と朝廷上層の公家の両方からひんしゅくをかっちゃう、、、、。
で、岩倉と共同歩調をとったのが、大久保利通。統治能力を失っていた幕府に代わって、新秩序を天皇を中心として作ろうとした。

当時の政治体制としては、主に3つの考え方があった。
① 幕府の専制を続ける。 (会津藩桑名藩、など)
② 徳川宗家中心の公議体制を作る。 (徳川慶喜土佐藩尾張藩、越前藩などの雄藩)
③ 徳川宗家抜きの公議体制を作る。 (薩摩藩長州藩岩倉具視

公議の試みはあったけれど、決裂。薩摩藩長州藩は、③の倒幕へと進んでいった。

結局は、幕府の統治能力の限界、とみんなが思った。では、なぜ、統治能力の限界となってしまったのか。それが、第2章 長州征討・新秩序の模索。

 

1862年 生麦事件 (薩摩藩士が英国人を殺傷)
1863年 長州藩、下関で外国船を砲撃。

    薩英戦争 (生麦事件が発端。両者痛み分け)
    8.18の政変 (長州藩が京都から追放される)
    参与会議 (参与島津久光ら、話がまとまらず2か月で解散)
1864年 禁門の変 (長州勢は朝敵となる)
    四国連合艦隊、下関を砲撃 
    第一次長州征討
1866年 薩長盟約
    第二次長州征討 (幕府の惨敗)

結局、第二次長州征討のころには、だれも幕府と一緒に長州を倒そうなんて気持ちを持てなくなっていた。しかも、そんなさなか、徳川家茂大坂城で病死するという不測の事態。征討軍は解散、幕府の惨敗となった。。。。

当時、時事問題を織り込んだ川柳や狂歌がはやって、政治を風刺する作品がたくさん作られた。長州征討を風刺した「伊呂波たとえ」というカルタが流行ったそうだ。

い:一寸先は闇 此節の形成
 まさか幕府が負けるとは、一寸先は闇

ろ:労して功なし 征討の諸軍
 動員された諸藩は苦労したのに得るものがなかった

こ:後悔先に立たず 将軍御進発
 将軍も江戸を進発しなければよかった

せ:せいては事 今度は衆評
 幕府は焦って失敗。今後はよくよく公議せよ

なるほどね。笑える。

 

第3章は、幕府衰退の象徴的事件、桜田門外の変桜田門外の変は、大老井伊直弼1860年桜田門外で暗殺された事件。最高権力者暗殺の成功は幕府の絶対性を崩壊させ単独政権の維持を不可能にしてしまった。海外からの開国圧力、将軍継嗣問題、なかなかみんなの意見がまとまらない中、直弼は、条約締結、将軍継嗣を、条約調印、一橋慶喜で進める。ところが、それを面白くないとみる勢力があった。対立は、いよいよ複雑化し、直弼を恨むものは多かった。

① 幕府と朝廷の対立
② 幕府と一橋派大名との対立
③ 幕府と志士の対立

そんななか、安政五年の政変。吉田松陰が死罪となった、安政の大獄をおこなった直弼。直弼は、方々から恨みをかっていた、、という状態だったのだろう。季節外れの大雪の日、江戸城桜田門外から登城しようとした直弼は、水戸藩の浪士らに暗殺される。そして、江戸の治安悪化。幕府の権威は失墜。。。。政治の舞台は、江戸から京都へと移っていく。

と、暗殺して死んでしまった井伊直弼だけれど、強引に推し進めた条約調印のきっかけになったのは、1953年ペリー来航だった。というのが、第4章。

 

ペリー来航の以前から、日本には度々海外からの船が現れるようになっていた。だから、ある日突然だったわけでもないのだ。でも、ペリーは圧力的にやってきたし、江戸近くにやってきたということで、インパクト大だったのだ。

 

1844年 オランダ国王の開国進言。 (出島だけでなくて広く開国してよ)
1846年 英・仏船、琉球に来航
    米使ビッドル 浦賀来航
1850年 幕府、御国恩海防令を公布 
1852年 オランダ商館長、翌年の米船来航を予告
1853年 ぺリー来航 
    品川の台場築造に着手
1854年 日米和親条約 (不平等な条約)
1856年 阿部正弘、通商肯定論に転換

この時代、老中阿部正弘の活躍については、多くの本で語られている。阿部は幕府の外の意見も取り入れ、漸進的に開国へと国を導いていった、といっていいのだろう。ある日突然ガラッと変える革命のようなやり方ではなく、徐々に徐々に、、、、。国家の一大事であるから、たとえ禁忌にふれることでも率直な意見をのべてほしい、と広く意見をつのった。
今の時代の、「組織運営」でもお手本になりそうなやり方だ。たとえ、自分の意思が決まっていたとしても、広く意見を聞く。敵を作りにくくする極意?!。
とはいえ、結局は幕府が倒れることで、明治日本の建設が可能になったのだ。

 

ぺリー来航から、幕府が倒れるまで。幕府が倒れた要因は、内部要因、外部要因、どっちもあったということだろう。
パスクトクガワーナも、こうして終わりを迎えることに。

 

幕末がよくわかる一冊。

歴史の勉強におすすめ。

 

⑥は、最後には倒れてしまった江戸だけれど、いかにして「天下泰平」を260年以上にわたって維持したのか。実は、いうほど天下泰平じゃなかったって話。 

 

続きは、また明日。