『NHKさかのぼり日本史 ⑥江戸 天下泰平の礎』 by  磯田道史

NHKさかのぼり日本史 ⑥江戸 天下泰平の礎
磯田道史
NHK出版
2012年1月30日 第1刷発行

 

⑤に続いて、⑥江戸。パスクトクガワーナはどうやって作られたのか。天下泰平というけれど、実は、いうほど泰平でもなかったんだよ、って話。農民は、天候不良で収穫が無くても年貢米をおさめろといじめられ、年貢を納めなければ、殺されちゃったり、、、。
とはいえ、島原の乱で、農民を殺しすぎちゃったら田畑があれて年貢を納めるひとがいなくなって、困ることになる、、、とういことに気が付いた幕府。また、飢饉が続くといずれだれもが大変な思いをすることになるので、備蓄することを覚えた時代。


先日の、佐藤優さんの『君たちの生存戦略』では、1755年 リスボン地震が、近代の災害対策の始まり、といわれるけれど、それより前に日本は1707年の宝永地震津波という大災害を経験している。

リスボン地震マグニチュード8.5~9.0相当。津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡。
宝永地震マグニチュード8.6~9.3相当。津波の死者もあわせて、2万人とも。

 

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災害だけではなく、人は、失敗から学ぶのだ、、、、ということがわかる一冊。

 

表紙裏には、
”歴史には時代の流れを決定づけたターニングポイントがあり、それが起こった原因を探っていくことで「日本が来た道」が見えてくる。
260年以上にわたる長期安定社会を築いた「徳川の平和」の根底にあったものとは。。
1806年→ 1783年 → 1707年 → 1637年の危機を社会構造改革の場とした”転換”の発想をみる。”と。

 

ターニングポイントは、
1637年 島原の乱 (一揆に加わった農民は皆殺し)
1707年 宝永の地震津波 
1783年 浅間山噴火・天明の飢饉 (火山灰の影響で数年続く不作、大量死者)
1806年 露寇事件 (ロシアが松前藩を一方的に攻撃、鎖国の姿勢を表明

 

目次
第1章 「鎖国」が守った繁栄
第2章 飢饉が生んだ大改革
第3章 宝永地震・成熟社会への転換
第4章 島原の乱鎖国」の終焉

 

時代の流れを覚書。
1853年のペリー来航より前に、多くの外国船が日本に現れるようになっていたので、日本は海外に対しての対応をハッキリさせる必要性に迫られていた。その大きなきっかけが、ロシア船の来日。

1792年 ラクスマン 根室に来航して通商を求める
1804年 レザノフ 長崎に来航して通商を求める
1806年 露寇事件 
1808年 間宮林蔵樺太探査
1825年 異国船打ち払い令 (「鎖国」を祖法とする考え方の成立)

 

ラクスマンやレザノフは、日本と通商をしたかったのだけれど、幕府の返事は煮え切らず、待たせた挙句に、追い返された。それを不満におもった一部のロシア人が、松前藩を焼き討ちにしたのが、露寇事件。11代将軍、徳川家斉の時代。江戸は、浮世絵、落語、握りずしの屋台など民間社会が花開いていたけれど、ロシアとの貿易なんて考えてもいなかった。蝦夷地のこともそんなに考えていなかった。
ロシアに、散々な目にあっても、江戸幕府は護衛の人手を送っておけば何とかなるだろう、、位の態度だったのに対し、松前奉行は、実態を上申
ロシアなど恐れるのに足りぬというのは、潔く聞こえるが、民命に関わる浅見である!”と。
そして、武威の行使よりも、民命を重視する政治へと変化していく。
ようするに、刀でたたかう日本の武威は、銃や爆弾をつかうロシアの前に何の役にもたたなかった、、ってことなんだけど。

 

江戸時代は、「鎖国」していたと言われるけれど、長崎では中国・オランダと通商していたので、まったく外国との交易がなかったわけではない。3代将軍家光が、渡航している日本人の帰国禁止、ポルトガル船の来航禁止を始めたけれど、長崎の出島は中国・オランダと繋がっていた。でも、ロシアに通商を求められてもどうしていいかわからなかった日本は、「鎖国」なんです、という態度にでることにした。武力衝突を回避する目的があって、「鎖国」という態度を表明するようになる。

 

本書は、露寇事件をはじめ、「民命」を大事にするという政治に変化していったターニングポイントが時代をさかのぼって説明されている。

 

露寇事件より前が、1783年浅間山の噴火に始まる天明の大飢饉。それより前、8代将軍吉宗は、享保の改革で知られるが、それは「緊縮財政」による質素倹約だった。幕府の懐を増やすことの方が、民命より大事だった時代。つまり、「福祉国家」という思想はゼロだったのだ。吉宗のあと幕府財政の改革は、老中田沼意次に引き継がれる。賄賂政治で有名な田沼だけれど、一応、商品経済、貨幣経済の進展を見据えて、年貢収入だけに頼らない財政基盤を作ろうとしていたのだった。今でいう、重商主義な積極政策だった。でも、商業に目が向きすぎると農村への救済が不十分となり、農民は田畑をすてて商業都市にでてきてしまった。放置された農村は、凶作でさらに荒廃し、飢饉へ・・・。

吉宗や田村がおこなった改革は、幕府の改革でしかなく、民への視線はほとんどなかったのだ。幕府が集めた資金は、幕府が使った・・・。

その後、老中松平定信の時代になると、反田沼派の支援もあり、軍事政権から福祉政治へと変化していく。

 

地方には、公共事業によって貧民救済をしたり、子育て支援をする代官も活躍するようになっていく。福祉国家のめばえ。

 

それより前に、1707年宝永地震では、それまで推し進めてきた新田開発の流れが、ただ量を増やすという政策ではなく、生産性をあげて質を上げるという流れへと変化をもたらした。そして、それは人々の暮らしを豊かにしていくことにつながる。地震で多くの田畑が失われ、人命が失われたことで低成長時代とはなったけれど、安定した成熟社会へと変わっていったのだ。

 

さらにさかのぼって、江戸時代の高度経済成長をささえた源流についてが、第四章。島原の乱に代表される。武力による恐怖支配では、領主側にとっても働き手を失うこととなり、生命尊重の社会へと変化していった話。

 

なんといっても有名なのは、島原の乱。これは、キリスト教信者がおおかったことから宗教的な反乱と思われがちだけれど、住民3万7千人が蜂起したと言われる一揆。背景には、島原、天草で数年に及んだ飢饉があった。飢饉にも関わらず、重い年貢を課した領主に対して農民の不満が爆発した。また、秀吉時代からのキリスト教弾圧に屈した人々も、この時には「立ち返りキリシタンとなったとも言われている。だからキリシタン一揆とも言われる。

結局、4か月に及んだ戦闘の末、籠城していた一揆勢は、女子供に至るまで、殺戮の対象となり、島原・天草地方の領民は激減。農村は荒廃し、年貢はゼロ、支配者である武士が困窮する事態へとつながる。
そこで、「暴力で領民を従わせることは、大きな代償をはらうことになる」という教訓をえた統治者は、百姓を大切にする「徳」を備えなければならない、、、と、武士の体質が改善された。

犠牲があってからの、「徳」への目覚め。綱吉の「生類憐みの令」も、元々犬を大切にせよ、ということではなく、人の命も、犬の命も、大切にしなさい、ということだった。

 

島原の乱以外でも、領主による領民の惨殺という例は地方ではよくあったのだという。いわゆる、悪徳代官か。泰平といっていられるのは、一部の武士階級に限られていたのかもしれない。

大きな犠牲のもとにあった、「福祉政治」への流れ。それが、パクス・トクガワの流れの源流にあったのだ。

 

そして、読み終わって、何か読んだことあるなぁ、、、、と思った。。

磯田道史さん?あれ?みたことあるぞ?

と思ったら、読んでいた。まさに本書を文庫化したモノって・・。

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まぁ、ほぼ読み終わって気が付いたのだから、私の記憶力なんてあてにならないもんだ。

 

ま、二度目としても楽しく読めた。

やっぱり、歴史は出来事を関連性をみながら読むのが楽しい。

 

歴史は、いくらやっても終わりがない。