「言志四録」 佐藤一斎:5 胸中虚明

「言志四録」(三) 言志晩録
佐藤一斎
川上正光全訳注
講談社学術文庫
1980年5月10日 第一刷発行

 

「言志四録」から。


5 胸中虚明

胸次虚明なれば、感応神速なり。

 

訳文
胸中が空っぽで透明であるならば、(万事に誠の心が通じ)その感応は実に神のごとく迅速である。

 

付記
・元の阪大学釜洞博士の遺文集『青雲』から。
博士が、「人物とはなにか」と数人の人に聞いたところ、司馬遼太郎だけは「人物とは何か真空の部分があって、それが人を引き付ける。」といった。それはつまり、一杯我欲がつまっていては、ひとが寄り付かないということではないか。

 

・禅の和尚さんの言葉から。
ある田舎の婆さんが、お寺の和尚さんから「 応無所住而生其心(おうむえしょじゅうしょうごしん)」という文句を唱えれば、願い事が叶えらえると教えられた。そこで婆さんは人が頼みに来ると、さっそくお祈りをしてやり、大変よく効くので大評判になった。
この話を和尚さんがきくと、どうも教えてやった文句と違うようなので、婆さんを呼んでたしかめると、大得意に「大麦小麦二升五合」とお祈りをするのだという。和尚さんは、「それは間違いだ。『応無所住而生其心』というのだ。」というと、婆さんは心の虚明をうしなって、お祈りはきかなくなったのだと。


「 応無所住而生其心」というのは、「まさに住する所なくして、その心を生ず」ということ。「こだわりのないところに、悟りの心が生ずる」という意味で、中国禅の開祖といわれる六祖慧能(えのう)禅師の逸話から生まれた言葉で「金剛般若経」にある。

 

慧能禅師は、3歳で父を失い、母子家族の貧困児だった。教育を受ける機会もなく、文字もしらない。体は小さく、恵まれていなかった。あるとき、街に薪を売りに行くと、お坊さんの読経の声が聞こえる。よく聞いているとそのうち、「 応無所住而生其心」という言葉が聞こえ、耳にするや否や全身全霊に強く感じるものを覚えた。読経をしている人に、そのお経はどこで教えてくれるのかと尋ねると、黄梅山の弘忍禅師(五祖)だという。
慧能さんは、母を知り合いに託して、弘忍禅師の元を訪れた。
弘忍禅師は尋ねられた。
「おまえはどこの人か」
「広州からまいりました」
「何しに来たか」
「ただ作法を求めて余物を求めず」

「おまえのような田舎猿がどうして仏になれるか」とたしなめられた。

人に南北ありと雖(いえど)も、仏性もと南北無し。田舎猿の身、和尚と同じからざるも、仏性何の差別か有らん」と直ちに答えられた。

五祖は、見所のあるものだとして入門を許された。そして、この慧能さんが、中国禅の開祖、六祖となるのだ。

 

胸中が空っぽで透明であること、私利私欲にかられないこと、それが肝要。

 

お婆さんの「大麦小麦二升五合」でも、いいじゃないか、、、と。相手のことを心からおもって、お婆さんはとなえたのだろう。

 

柳澤さんの『リズムの生物学』にでてきた「ダルマサンガコロンダ」を思い出す。

megureca.hatenablog.com

 

「ダルマさんが転んだ」と繰り返し唱えているうちに、激痛が和らいでいった、、、という話。

 

「大麦小麦二升五合」も、実際に声に出してみると、何とリズムのいいことか、、、。願いが叶いそうな。。。

 

理屈じゃなく、屁理屈じゃなく、ただ純粋に心がそこにむかっていることが大事。

儲けようとしてやるビジネスより、これこそ人のためになると思ってやったビジネスの方が、地味に長続きする。無欲の勝利って、ホントにある。

 

夢を持つ、野望をもつ、もいいけど、時々、空っぽになってみるって大事だ。

 

あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、あれもしたい、これもしたい、、、そういう気持ちになったときは、とりあえず自分が一番心地よく感じる時間を大事にしよう。

 

いったん、気持ちをサラにしてみると、意外と余裕ができたりする。

 

サラリーマンをしていると、休日があるのが当たり前なのだが、個人で仕事をしていると、毎日が休みの様で、毎日が仕事の様で、、、実は、メリハリがないような気がしている。休むときは、休もう。

 

心を空っぽにする時間も、大切にしよう。

本当の心の声を聴くには、インプットもアウトプットもやめて、ただ空になる時間も大切なんだと思う。