『祖国地球 人類はどこに向かうのか 』 by エドガール・モラン (その2)

『祖国地球』人類はどこに向かうのか
エドガール・モラン
アンヌ・ブリジッド・ケルン
菊地昌実 訳
叢書・ウニベルシタス 法政大学出版局
1993年12月25日 初版第一刷発行

 

目次
プロローグ 歴史というものの歴史 
1 地球時代
2 地球的身分証明書
3 地球の最後の苦しみ
4 地球上の私たちの目的
5 不可能な現実主義
6 人類政治
7 思考の変革
8 滅びの福音書
結論 祖国地球

 

昨日の続き。

megureca.hatenablog.com

 

マルクス資本論的考え方「あらゆる事物の商品化」から先。

 

・戦争が終わった1945年、進歩主義の大いなる希望があったはずが、更に経済の後退、不況、飢饉、内戦、部族・宗教戦争へと。それを”地球号は、夜と霧の中を航行している”と書いている。

V.E.フランクルの『夜と霧』の世界は、1945年後も続いていた、という比喩だろうか・・・。特に説明はないけれど、文脈から、そんな気もする。

*V.E.フランクルの『夜と霧』:ドイツ強制収容所の体験記録 

 

「発展・開発」という神話について
発展[開発]に対する無条件の信仰は、進歩の必然的前進に対する無条件の信仰と結びついて、一方では一切の疑惑を排除し、他方では開発が展開していく中で生じる蛮行を隠蔽することを許してしまった。
開発の神話は、開発のためにはすべてを犠牲にすべきだという信念を生んだ。この神話によって、「社会主義」型(単一政党)であれ、親西欧型(軍事独裁)であれ、冷酷な独裁性が正当化された。開発革命によって起こった残虐行為は、低開発(の国々、地域)の悲劇的状況をさらに悪化させた。”


このあと、著者は、”発展[開発]にかんする未熟な概念を捨て、また無限に成長し続ける必然的進歩という神話的な考えを諦めるべきだろう。”と言っている。斎藤さんの『人新世の資本論に通じる概念だ。

 

成長や発展・開発を目指すという方向性に、重きを置きがちな技術者の私としては、やはり、そのまま「諦める」という言葉を鵜呑みにすることができない・・・。二律背反をいかに克服するか、それが重要だと思う。

 

・”ダモクレス的局面
言葉の意味がわからなかった。
文脈としては、
”地球の危機は歯止めのない過程の中心にあるし、また、この過程は地球の危機の中心にある。全体の死に関わる脅威の高まりは、地球の危機の特徴の一つである。
1945年、広島の原爆は、核兵器が人類全体の頭上に吊り下げられたままという新しい局面を開いた。このダモクレス的状況は、人類を何度も殺せる膨大な量の武器のストック、何千発も基地に隠され原子力潜水艦に積まれて大洋を航行し、高性能爆撃機に積まれて中継なしで空を飛び続ける大量虐殺用ミサイルとともに、ゆるるぎなく確立した。核兵器は拡散し、小型化し、いずれ常軌を逸した独裁者やテロリストがこれを手に入れるだろう。”
と。

 

広辞苑で調べてみた。
ダモクレス、でひいたら、ダモクレスのつるぎ」がでてきた。

 

ダモクレスの剣シラクサ王デュオニュシオスが、その繁栄を讃えるあまりに称える臣ダモクレスを天井から馬の毛一本でつるした剣の下の玉座に座らせた故事から、繁栄の中にも危険があること。

だそうだ。

なるほど。
そして、”ダモクレス的脅威は、生物圏に広がった”として、私たちが生み出す廃棄物が生活環境を汚染していることを指摘している。

 

1993年の本としては、結構、時代の先を行く指摘だったのかもしれない。いや、ちょうど、ダイオキシンが問題になり始めた時期か・・・。

 

・4 地球上の私たちの目的 の中で。
憎しみに満ちた残酷さは第一の野蛮から生まれ、殺人、拷問、個人的・集団的狂暴さという形をとるが、匿名性の残酷さは、技術・官僚的野蛮から生まれる。”
ここでいう、技術・官僚的野蛮の例として、「汚染血液事件」が語られている。具体的にどの事件のことを言っているのかはでてこないのだけれど、「薬害エイズ」問題だろうか。
実に象徴的な汚染血液事件は、この第二の野蛮の本質が技術化、高度専門化、細分化、官僚化、匿名化、抽象化、商品化の結合にあり、それらは協力して全体的なもの、根本的なものを失わせ、さらには責任、具体性、そして人間性をも失わせるということを、私たちの目の前に明らかにした。”

細分化されることの危険性。このあたりの文章に、著者の超領域性といわれる思考が、ふんだんに盛り込まれている感じがする。

簡単にいってしまえば、専門バカは、危険なのだ。それは、よくわかる。専門性が高いほど、他の領域を無視して、専門バカに走ってしまう怖れがある。。。
だからこそ、「部分と全体」なのだ。

後の方に、部分と全体の話もでてくるのだけれど、これも、ハイゼンブルクの哲学を引用しているのだろうか。

megureca.hatenablog.com

 
・4 地球上の私たちの目的 の中での一つの結論。
”・・・・以上から、発展世界も含めた現代の、精神的、心的、情緒的、人間的低発展状態こそ、これからのヒト化の鍵となる問題であるという考えに、私たちは導かれる。”

発展すればいいのではない、という話。


低発展[低開発]は未発達であり、発展[開発]させようとする行為が、数千年来の文化の説くと富を無視して行われた結果、死に至らしめることとなったのだ。

低発展世界の物質的貧困の問題を解決するための行為はいいのだけれど、そこに精神的貧困がある限り、不幸な結末が待っている。この、精神的貧困に気づかずにいることが問題なのだという。

物質的貧困と精神的貧困の相対。これも、行き過ぎた専門性の結果かもしれない。あるいは、貨幣至上主義の結果か。。。


・7 思考の変革 から
”そもそも、正しい認識とは何かということについて、根の深い無知がある。支配的なドグマによれば、正しさは専門化と抽象化とともに増す。ところで、私たちが認識とは何かをほんの少しでも知るなら、いちばん重要なのは文脈への組み入れ(コンテクチュアリザシオン)であることがわかるクロード・セバスチアンが記している。
認識の進化は、ますます抽象化する認識を配列することではなく、知識を文脈(コンテクスト)の中に組み入れることへと向かう。」 この進化は知識の挿入の条件と知識の有効性の限界を決定する。セバスチアンはさらにいう。「文脈への組み入れは有効性(認識機能の)必須の条件である。

専門化された認識・知識というのは、それが他の認識・知識と共に、一つの文脈にあってこそ、意味があるということ。

 

これは、たくさんの本を読んでいるうちに、私自身が強く感じるようになった事と近い。点と点がつながることが重要なのだ。高度な専門性をもった認識も、一般的文脈のなかに溶けあわないことには、第三者に伝わらないのだ。「政府の専門部会」とか「エキスパート部会」が機能するように感じるのは、彼等が世間一般に呼びかける言葉が難解な専門用語でなはく、一般に理解可能な言葉に落とし込まれた時だ。自分たちの世界、つまり専門家同士で話している言語で、一般の人につたえようとしているのは、文脈に組み入れられたとは言い難い。

 

また、専門的な言葉ではなくても、歴史、宗教、哲学、様々な話が、一般の文脈にうまく溶け込んだ時、初めてそれらの話は力をもって伝わってくる。

そういう意味で、おそらくこの本は、この本の著者エドガール・モランは、「文脈への組み入れ」が極めて旨い!高度だと思う。
だから、ちょっと難しそうな話なのだけれど、私にもわかるような、、、気がするのだ。

 

文脈に組み入れるって、すごく大事だと思う。
また、読み手、聞き手としては、文脈をとりに行く姿勢も大事だ

 

同じ項のなかで、「文脈の思考」という文章がある。
”私たちは政治、経済、人口、生態学、生物学的、生態学的、地方文化的宝庫の保全、、、例えばアマゾン川流域のインディオの文化も森も、、、動植物の多様性と、生態学的多様性と不可分の何千にもわたる経験の体積としての文化的多様性の保全などを考えるとき、地球レベルの言葉を用いて考えなければならない。ただ、あらゆる事物と事件を地球という「枠」「領域」に入れるだけでは十分ではない。あらゆる現象とその文脈、あらゆる文脈と地球的文脈の不可分の関係、相互・遡及作用の関係を常に追求することが大事だ。”

ちょっと、難解な気がするけど、声に出して読んでみると、わかる。

 

保全を考えるには、地球規模で考える必要がある。その際には、あらゆるものの関係を追求する必要がある。

要するに、超複雑系であるということをわすれてはならない、ということだろう。バタフライ効果を、忘れるな、と。

 

そして、全体と部分の関係の話になる。

研究の対象を切り離すのではなく、その環境、―文化的、社会的、経済的、政治的、自然的ー との自己=生態=組織関係の中で、またその関係性によって考える思考が大事である、と。

 

不確実性と予測不能性。その中にあっても、部分と全体を切り離してはいけない。個人、民族という部分が、地球という全体の中にあるように、さらに全体が部分の内部にあるようにもしている。部分と全体の入れ子構造。

さまざまな問題は、すべて不可分であり、円環を作り、互いに依存し合っている。これらを扱うことができるのは、複合的思考だけなのだ、と。

複合的思考への思考の変革は、人類学的、歴史的に鍵となる問題なのだと。コペルニクス革命より、はるかに重大な精神革命をもたらすはずだ、と。

 

そして、祖国地球。

私たちは地球に属し、地球は私たちに属している。そして、私たちは、次のことを自覚すべきである、と。

 

・地球の統一性の自覚(地球意識)

・生命圏の統一性・多様性の自覚(生態学的意識)

・人間の統一性・多様性の自覚(人類学的意識)

・私たちの人類・生物・物質的身分の自覚

・私たちのダーザイン[実存]、何故かわからずに「ここにいる」という事実の自覚

・地球時代の自覚

ダモクレス的脅威の自覚

・人間の生命、あらゆる生命、あらゆる惑星、あらゆる太陽、すべてにかかわる滅びの自覚

・私たちの地球の運命の自覚

 

これが、結論にまとめられている。

 

深く、広い一冊だった。

複雑系への複合的思考が重要なのは、よくわかる。でも、複合的思考は難しくて、時に思考停止に陥る。そして、自分に見えている範囲だけで物を考え、とらえる専門バカになってしまう・・・。自国の事しか考えられない国民ではなく、地球の事を考えられる地球人になれる思考が必要ということなのだろう。

とはいえ、地球人である前に、私たちは一人一人の個人であり、家族があり、社会があって生きている。身近な人たちの幸せを大事にすることも捨てられない。たぶん、身近な幸せを脇に置いておくということではなく、身近な幸せを大事にしながら、時間軸、地域軸双方にどのような影響を与えるのかを思考の枠組みに取り入れる習慣が大事なのだろう。

 

面白い本だった。

この本がすらすらと読めるようになるには、もっともっと、縦(時間軸)にも横(地域軸)にも広い知識と思考が必要だなぁ、と思った。

 

やっぱり、読書は楽しい。