『NHKさかのぼり日本史 ⑨平安  藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか』 by  朧谷寿

NHKさかのぼり日本史 ⑨平安 
藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか
朧谷寿
NHK出版
2012年5月25日 第1刷発行

 

⑧室町・鎌倉につづいて、そのさかのぼり、平安。

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藤原氏がいかにして天皇家と血縁を作りながら権力を発揮しつづけたか、ライバルだった菅原道真大宰府左遷までするにいたったのか。これは、もう、家系図をみてもなんだかわけわからん!!!って感じ。


ちょうど、井上靖の『後白河院をよんだところだったし、そのごちゃごちゃはわかってはいたものの、、、、ほんとに、とりあえず、平安は延々と続く政略結婚の時代、、、って感じかな。

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表紙裏には、
”歴史には時代の流れを決定づけたターニングポイントがあり、それが起こった原因を探っていくことで「日本が来た道」が見えてくる。
藤原氏の時代ともいえる平安時代400年
彼らは、いかにして貴族社会の頂点を極めたか。
1156年→ 1018年→ 901年→ 866年の権力闘争を勝ち抜いた”一族”の正体に迫る。

 

ターニングポイントは、
866年 応天門の変
901年 菅原道真大宰府左遷
1018年 「望月の歌」の吟詠
1156年 保元の乱


目次
第1章 摂関家の危機
第2章 藤原道長の栄華
第3章 権力独占への道
第4章 摂関政治の誕生

 

本書は、天皇家と藤原家の家系図なくしては読めない、、、のだけれど、家系図があっても、もうどうでもよくなってくる・・・・。資料として、たくさんの家系図が掲載されているのだけど、婚姻関係が複雑すぎる。

 

白河上皇院政が始まり、藤原忠実(たださね)が関白になる時代の話から始まる。まさに、『 後白河院』の時代へ突入するあたり。保元の乱平治の乱は、内部分裂が発端だったということ。いつの世も、内部分裂だ・・・。そして、平清盛太政大臣に就任し、平氏の時代になっていく。

 

そもそも、天皇家の「院政」という仕組みが無ければ、摂関政治も始まらなかった。皇位継承をさっさとすませて、自分は大御所として政治を意のままにする「院政」。そして、それをサポートする貴族の代表が藤原氏だった。
でも、天皇家の内部紛争に藤原氏がそれぞれ加担する形で、内乱が大きくなる。皇位継承しても上皇としていつづけるのだから、口出しもする。けんかもする、、、ってこと。

藤原氏のなかでいちばんの栄華を極めたのが藤原道長
権力の絶頂の時に、道長が宴会の席で詠んだ歌が有名。


この世をば我が世とぞ思う望月のかけたることもなしと思へば

 

この世は、わたしのためにあるようなものである。
満月がかけることなく完全なものであるように、私のおもうようにならないことは一つもない、、、。

よくも、いったもんだ。。。恥知らず、、って感じだけど。
この時、道長は、太皇太后(故一条天皇中宮の彰子(しょうし))、皇太后(故三条天皇中宮の妍子(けんし))、威子を皇后(中宮)として、三后全てを自分の娘で独占するという事態を迎えていた。なにも自分の思い通りにならないことなどない、、と、そんな心持だったのだろう。

本書は、この後も、どろどろとした話が続いて、思わず、読み飛ばしてしまった。。。

けれど、道長の娘、彰子の教育係りとして雇ったのが、あの紫式部だったのだ。当時の美女の三大要素は、
・教養がある=漢文が読める
・和歌が上手
・黒い長い髪
だった、ってところは面白い。
教養をつけさせるために、才女だった紫式部を雇ったのだ。

ちなみに、彰子のライバルとなる皇后定子には、清少納言という女房がいた。

紫式部清少納言。才女が活躍した時代。

藤原氏の栄華の時代は、教科書的に読むよりは、紫式部の『源氏物語でも読んだ方が楽しそうだ。 

 

とにかく、道長は自分の血縁なら誰でも彼でも、天皇と結婚させた、、って、そんな感じ。当時の感覚で言うと、自分の外孫に娘を嫁がせるという異様なことまでしている。当時でも、尋常ではない措置だったらしい。

そんな、めちゃくちゃをした道長だけれど、そのおかげでその時代の仏教美術、文化・芸術が花開いた。頼道(道長の息子)の時代につくられた宇治の平等院鳳凰堂もしかり。

やりかたがどうであれ、安定政権をつくると文化が花開く、それは歴史のパターンの様だ。 

 

道長がその栄華を極める前のターニングポイントが、菅原道真大宰府左遷。これは、藤原氏の「他氏排斥」行動の最たるもの。
その時の出来事の流れは、

 

877年 菅原道真 文章博士に就任
道真が、エリートの博士として認められる

887年 『阿衡の紛議』
宇多天皇藤原基経との間で言葉のすれ違い(「阿衡」という言葉を天皇が使った)から誤解が生じ、基経が朝廷に仕えるのをボイコットした事件。この時、二人の仲を冷静な言葉でとりもったのが、道真だった。

899年 菅原道真が、右大臣に就任
阿衡の紛議を収めた功績もみとめられ、道真が出世する
菅原氏は門地の低い家柄で「寒門」とよばれていた。その寒門出身の菅原道真が右大臣に就任するというのは、前代未聞の異常事態だった。ちなみに、藤原氏のような累代の名門は「権門」という。

道真は、前代未聞の大出世をしたことで、公家たちからにらまれてしまう。そして、身の程知らずは、自ら職を辞するのがふさわしい、と騒ぎ立てられる。また、嫉妬に駆られた公家たちは、道真は宇多天皇となにか謀議を巡らしているにちがいない、と、、、。
そして、道真は、謀反嫌疑の冤罪をかけられ、大宰府に左遷されてしまう。

901年 道真、大宰府へ左遷
となるのだ。

藤原氏の徹底した他氏排斥。。。

藤原氏の中でも、摂関や太政大臣へ昇進する家柄とされる「五摂家」(近衛家九条家二条家一条家鷹司家)は、官位・官職ヒエラルキーのトップの座を占め続けた。
近代以降においても、戦前、三次にわたり内閣総理大臣を務めた近衛文麿は、近衛家の出身。その近衛家の娘と、足利家の分流である武家の名門・細川家の当主護貞との間に生まれたのが、細川護熙内閣総理大臣

藤原氏の長い歴史。

 

政略結婚も、当時では当たり前のことだったのだろう。今でも、名門家庭にうまれると、ゼロではないのかもしれない。

 

あぁ、一般庶民の子でよかった。

 

さかのぼり日本史、とうとう平安まで来たので、一休み。

また、教科書にもどって、勉強しよう。

 

読み物で学ぶ歴史は、教科書と併用すると理解がぐっと進む。

受験対策にも、お薦めだと思う。

 

読書は、楽しい!