「言志四録」 佐藤一斎:9 聖人とは人と同じからず、また異らず

「言志四録」(三) 言志晩録
佐藤一斎
川上正光全訳注
講談社学術文庫
1980年5月10日 第一刷発行

 

今日は、言志四録から。

9 聖人とは人と同じからず、また異らず

 

「憤(ふん)を発して食(し)を忘る」とは、士気是(か)くの如し。「楽んで以て憂を忘る」とは、心体(しんたい)是くの如し。「老の将(まさ)に至らんとするを知らず」とは、命(めい)を知り天を楽しむこと是くの如し。聖人とは人と同じからず。又人と異ならず。

 

訳文
「物事の道理を研究してわからない所があると、憤を発しって食事を忘れる」ということは、聖人孔子の志がこのように盛んであったことを示すものだ。「物事が一たびわかると、非常に喜び楽しんで、一切の憂を忘れてしまう」ということは、孔子の心の本体が、このようにいかに健全であったかを示すものだ。また「一心に勉学して、年をとることを知らない」ということは、孔子がこのように自分の天命を知り天道を楽しんでいたということを示すものだ。
このように考えてくると、聖人は(今述べた忘食、忘憂、忘老などの点では)普通の我々と同じではないようでもあるが、また(食を要し、憂も感じ、年もとることを考えると)そんなに違ってもいないようでもある。(努力次第で我々も聖人になれるのではないか。)

 

語義
・発憤忘食:『論語』述而篇に「葉公、孔子子路に問う。子路こたえず。子曰く、汝何ぞ云わざる。其の人となりや、憤を発して食を忘れ、楽しみて憂を忘れ、老のまさに至らんとするを知らずとしかいうと」とある。
憤とは物事を研究し、まだわからなくていきどおりもだゆること。
知命楽天:天命を知り、天道を楽しむ
・聖人:智徳ともに理想の域に達した人の称。ここでは孔子

 

孔子のようなすごい人も、お腹が空けばご飯をたべ、憂いを感じることもあるし、年もとる。それは、我々凡人と一緒じゃないか。だったら、我々もひょっとしたら聖人になれるんじゃない?って話。

ちょっと、わらっちゃった。

うん、なかなか前向きでよろしい。

「智徳ともに理想の域に達した人」になど、到底なれそうもないけれど、憤を発し、研究に没頭することなら私にもできそうだ。天命は50歳を過ぎても未だにわからないけれど、毎日楽しむことはできている。年をとっても勉強は楽しい。
う~~ん、ま、聖人をめざそうとは思わない。
でも、私なりに、若い頃よりは大人になったかなぁ、なんて思うことはある。

知り合いの人材開発会社の社長が、人の上に立つ「人物」になるには、「修辞学」を学ぶ必要がある、というようなことをおっしゃっていた。若いときは、「言葉遣いに気をつけろ」と言われても、なかなかその重みがわからなかった。でも、今はわかる。

 

佐藤優さんがよく言っている。「おまえ嘘つくなよ」、といえば角が立つけれど、「お互い、正直に行きましょう」といえば、角がたたない。

megureca.hatenablog.com

 

そんなことも、様々な経験を重ねて、年をとったことで身をもって実感するようになった。

毎日を楽しく、勉強していれば、自分と向き合って生きていると、知らないうちに理想に近づいていくこともあるのかもしれない。

 

経験をかさねるというのは、それだけでも成長なのだ。

例え、1か月に一度のお稽古でも、10年続ければ10年選手、ってよく言っている人がいた。

継続は力なり。

それは、ただ、人生を生きているだけの継続でも、またしかり、かもしれない。

 

生きている、それだけでもすごいことだ。

でも、せっかくなら、学び、楽しく、元気に生きていこう。