『名人』 by  川端康成

名人
川端康成
新潮文庫
昭和37年9月5日 発行
平成30年10月5日 44刷
令和4年10月30日 新版発行
THE MASTER OF GO

 

図書館で、新着本の棚にあったので借りてみた。川端康成の作品だけれど、読んだことがなかった。


裏の説明によれば、囲碁本因坊秀哉(ほんいんぼうしゅうさい)名人の話らしい。先日、何かの話の流れで、囲碁の名人はむかしは世襲制で、最後の世襲名人が本因坊秀哉だったという話題になった。囲碁の世界には、そんな時代があったんだぁ、と「本因坊秀哉」の名前が記憶に残っていた。そんな名人の話だというので、読んでみた。

 

裏の説明には、
”かつて囲碁の「名人」は最強の棋士ただ一人に与えられる終身性の称号だった。昭和13年、最後の終身名人にして「不敗の名人」と呼ばれた本因坊秀哉は、自身の「引退碁」として若手の大竹七段から挑戦を受ける。秀哉名人は65歳、病を押しての対局は半年に及んだ。緊迫した応酬が続く戦いに罠を仕掛けたのは…。
命を削って碁を打ち続ける、痩躯の老人の姿を描いた珠玉の名作。”
とある。

 

昭和13年の実際の引退碁は、秀哉名人と小谷実七段の対戦だった。本書の中では小谷実七段は、「大竹七段」という事になっている。フィクションであり、ノンフィクションという作品。 

 

感想。
骨太だ。
やっぱり、川端康成って、骨太だ。。。
何というか、人間の強さ、そして弱さに、、、それでも戦う強さに、圧倒される。
碁をしっていれば、もっと楽しめるのだろう。私は、一時碁にはまったことがあったけれど、難しいのと時間がかかるのとで、あっという間にあきてしまった・・・。父とは、9個の置石(ハンディキャップ)をもらっても、勝てなかった・・・。ま、うまくならないから、諦めたといったほうが正しいか。

 

本文163ページの薄い文庫本である。勝負の結果は、名人が負けたという事は知っている。しかも、半年にかけての対戦。実は、名人は病を押しての、かなり辛い戦いだったのだ。それは、知らなかった。

お話は、名人が死んだ時の話から始まる。この、始まり方も、なんというかごっつい。読者としては、いきなり主人公が死んだと言われて、さぁ、こころして読めよ!と言われている感じがする。かといって、堅苦しくはない。なんなんだ、この骨太さ・・。

 

第二十一世本因坊秀哉(しゅうさい)名人は、昭和15年1月18日朝、熱海のうろこ屋旅館で死んだ。数え年67であった。
この1月18日の命日は、熱海では覚えやすい。金色夜叉」の熱海海岸の場、貫一のあのせりふの「今月今夜の月」の日を記念して、1月17日を熱海では紅葉祭という。秀哉名人の迷日は、その紅葉祭の翌日にあたる。”

と、始まる。

 

最初の「死んだ」という言葉から、どーーーんと骨太な文体を感じずにはいられない。昭和15年に亡くなっているのだから、当然、私はまったく知らないし、私の両親ですら、名人の最終碁、命日、リアルタイムで知っていることではない。

 

でも、読んでいると、そんなに昔の事とも思えないのだ。お話は、名人が死ぬ直前に一緒に将棋をさした新聞記者が「私」として語っている。主人公の私は、名人の引退碁の観戦記者として、東京日日新聞(毎日)に選ばれたところから名人との付き合いが始まった事になっている。実際に、川端康成は、名人の引退碁をみていた。自分の目で見たことを、引退後に立ち会った新記者に語らせるという形で物語は進む。

 

名人が病のために、度々対戦を休み、病院に入らねばならないほどの状況だったこと。対戦相手の七段は、大先輩にあたる名人を尊重しつつも、もうやっていられないと試合をやめたがる様子。両者を支える妻や家族。病でやせ細りながらも、対戦に挑む意力を失わない名人。わがままを言いつつも、七段に気をつかい、世話人たちが困らないように気をつかう名人。なんとなく、名人の人としての大きさを感じるところも、骨太だ。

 

両者の布石についても、一部詳細に語られている。これらの布石がすっと頭に浮かぶと、もっと面白く読めるのだろう。実際の対戦記録があるので、試しに自分で石を順番においてみることもできる。本書の後ろには、百手まで、百手から二百三十七手までと、1ページずつ、掲載されている。囲碁というのは将棋と違って、置いた石は動かないので、1から順番に番号をつけて記録できるから、おさらいするのに都合がいい。

終結果は、黒五目勝。七段が名人を破った。

 

当時を身近に感じる文章として、たばこ「敷島」がでてきた。たばことはかかれていないのだけれど、文脈から、あぁ、名人はたばこをすっていたのか、と分かる。

トイレが近い七段は、対戦中にもしばしばトイレにたつ。

”6分考えて、黒三の手を打つと、「失礼いたします。」と早速立った。次の五手を打って、また立った。「失礼いたします。」
名人は袂から敷島を出して、ゆっくり火をつけた。”と。

敷島をネットで検索したら、やっぱり、たばこだった。

敷島(しきしま)は、かつて大蔵省専売局が1904年6月29日から1943年12月下旬まで製造・販売していた日本の口付紙巻きたばこ

だって。

 

ちなみに、一般的に碁では、強いほうが白で、挑戦する方が黒。そして、黒先手。先手は圧倒的に有利なのだそうだ。名人は、30年以上、黒を持ったことがなかった。つまり、それだけ強かった。そして、名人の死後10年たっても名人の名を継ぐ方途が立たなかったのだそうだ。

お話の中では、
”道としての碁の伝統が尊んだ「名人」は、おそらくこの名人が終わりであろう。”とでてくる。

 

主人公の新聞記者が、引退碁が中断されたので、電車で軽井沢にかえる際、電車の中で見知らぬアメリカ人に碁一席願いたい、と誘われるシーンがでてくる。そして、アメリカ人の早打ち、負けても何局もたて続けに打ちたがる様子に、いやな気がしてくるほどだった、と書いている。

”幾度負けても腐らない、陽気な不死身には、こちらが参りそうだった。”と。
そして、
私はアメリカ人と打ってみて、その人の国には、碁の伝統がないことも感じた。”と。

実は、秀哉名人は得度していて、初代本因坊算砂(さんしゃ)こと僧日海の300年忌に、日温という法号をさずけられているのだそうだ。
”日本の碁は、プレイとかゲエムとかの観念を超えて、芸道とされている。”と。

 

後半、対戦のクライマックスの描写は、碁の素人の私にでも伝わってくる緊迫感がある。え?そこにその手?という感じだったのだろう。。。

名人は、五目の差で負ける。

負けた後の様子も、どーんと骨太だ。勝った七段や関係者がいそいそと対局場を去っていく中、名人はいつまでもその旅館に居座った。

お話の最後は、死んだ名人を見送る場面にもどる。 

 

名人を破った七段より、負けてもやはり名人は名人なのだ。

 

川端康成は、このお話を書くのに何年もかけている。もともとは、昭和26年から29年にわたって、4回に分載された。最初に執筆したのは、昭和19年で、戦中から書き始めて、昭和29年に完成した。それだけの時間をかけて、この短く、濃い物語。

 

伊豆の踊子』にしても『雪国』にしても、物語は長くない。薄い文庫本だ。だけど、濃いのだ。。。。川端康成って、いったいどういう人なんだ、と感じる。

megureca.hatenablog.com

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ノーベル賞受賞スピーチの作品、『美しい日本の私』、今度、読んでみようと思う。読書好きな友人からも薦められているのだけれど、まだ読んだことがない。

また、読みたい本が増えていく・・・。

 

やっぱり、この時代の本はいい。

名著と呼ばれ、時代を重ねて刷られ続ける本というのは、やはり、読み応えがある。

小説も、やっぱり楽しい。

やっぱり、川端康成、一度は読むべき本だと思う。

読書が楽しくなるきっかけの一つになると思う。