『詩のこころを読む』 by  茨木のり子

詩のこころを読む
茨木のり子
岩波ジュニア新書
1979年10月22日 第一刷発行
2009年11月10日 第68刷改版発行
2019年2月5日 第80刷発行

 

齋藤孝さんの『読書する人だけがたどり着ける場所』の中で、人生を深める本として紹介されていた本。図書館で借りてみた。

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紹介されていた中で、Megureaに書き留めたのは以下の4冊。
人生を深める本
・『マクベスシェイクスピア
・『ドン・キホーテセルバンテス
・『金閣寺三島由紀夫
・『詩のこころを読む』茨木のり子

 

茨木のり子さんは、1926年生まれ。1946年東邦大学薬学部卒業、敗戦後の新しい息吹に動かされ、1950年頃から詩作をはじめる。1953年、川崎洋氏と二人で、同人詩誌『櫂』を発刊。詩集の他、エッセイ集もある。

 

私が、茨木さんの事を知ったのは、キムジヨンの書籍、『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』でだった。

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それまで、詩というものに興味があったわけでもなかったけれど、キムさんの本の中で、茨木さんの詩が紹介されていて、ギュッと胸が痛くなるような心の掴まれ方をした。それから、時々、新聞に茨木さんのことがでていることに気が付くようになった。「バカの壁」だったんだなぁ、と思う。興味がないことは、目に入っても記憶にとどまらなかった。それが、「茨木のり子」という名詞に興味を持ったら、巷にあふれていることに気が付いた。本書だって、2019年第80刷というのだから、、、しかも、岩波ジュニア新書だ。子供の時に本書に出会っていたら、詩というものにもっと興味をもって人生をおくってきていたかもしれない。。。

 

本書の裏には、
”いい詩には、人の心を解き放ってくれる力があります。また、生きとし生けるものへのいとしみの感情を優しく誘い出してくれます。この本では、長いあいだ詩を書き、多くの詩を読んできた著者が、心を豊かにしつづけている詩の中から、忘れがたい数々を選び出し、その魅力を情熱を込めて語ります。”と。
この紹介文の最初の2文は、「はじめに」に掲載されている茨木さんの言葉の抜粋。 まさに、この紹介の通り。情熱の語り。

本当に、さまざまな感情を揺さぶられる詩が、、、茨木さんの言葉と共に綴られている。これは、、、静かな湖畔で、自然の風の中で読んだら、、、生きていることのありがたさを噛みしめたくなるような、そんな一冊。旅の共にいい一冊だ。
なるほど、詩ってすごいな。

 

目次
1 生まれて
2 恋唄
3 生きるじたばた
4 峠
5 別れ

 

それぞれのテーマの詩が紹介されている。長いもの、短いもの、様々だ。そして、それらの詩に、茨木さんがどう出会ったのか、どう感じたのか、が語られている。詩への愛あふれる一冊、ってかんじかなぁ。でも、甘ったるい愛ではない・・・。

しょっぱなに紹介されているのが、谷川俊太郎の「かなしみ」という詩。


「かなしみ」
谷川俊太郎


あの青い空の波の音が消えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった。

ー詩集『二十億光年の孤独』


忘れた、落とした、そして途方に暮れて、、、何を忘れたのか、何を落としたのかもわからなくなって、それでも、心にぽっかり穴があいている悲しい感じ・・・だろうか。
茨木さんは、この詩から、
生まれるてくるとき、人はどういうところを通ってきたのか、、、それも思い出せないことの一つ、と語っている。
「私はどうして今、ここにいるのだろう」
「いったい何をやっているのだろう」
「なんのためにうまれてきたのだろう」

覚えていなくても、わからなくても、私たちの細胞は分裂を繰り返し、生きている。生まれて、生きて、成長するにつれて自分を客観的に捉えようとする動きが出てきて、様々な欠落感になやまされるようになり、、、、「かなしみ」の詩にあるような、落としものを感じるようになる。

生まれたての赤ちゃんは、おとしものも、わすれものも、ないんだね、って気が付く。
私たちは、いつから欠落感に悩まされるようになるのだろうか
でも、欠落感があるから、補いたいという気持ちも生まれる。
それでいいんだ。

 

もう一つ、とても心に響いたのが、「I was born」という、吉野弘さんの詩。
英語を学び始めて間もないころに、生まれるという言葉が英語では、「I was born」という受動態である、ということに気が付いて、興奮して父親にそのことを告げる。

I was born.さ。
受身形だよ。
正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。
自分の意思ではないんだね。
という子ども言葉を聞いた父親は、蜉蝣(かげろう)の短い生の話を語った。

そのやり取りがI was bornという詩。

そうか、そうだった。。。と、私もちょっと受動態であることを認識して、物知りになった気になった。

私たちは、生を受けて、ここにいるのだ。

吉野さんの「生命は」という詩も紹介されている。

 

生命は
自分だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不十分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者からみたしてもあるのだ
・・・・・・(続く)”

ああぁ、、、そうだ。そうなのだ。
欠如があるということが、生き物ということなのだ・・・。

と、そんな、生まれるというテーマから、恋愛、人生、についての詩が続く。
中でも、石垣りんさんの詩が、私のこころをわしづかみにする。

 

「その夜」
石垣りん

 

女ひとり
働いて40に近い声をきけば
私を横に寝かせて起こさない
重い病気が恋人のようだ

どんなにうめこうと
心を痛めるしたしい人もここにいない
三等病室のすみのベッドで
貧しければ親族にも甘えかねた
さみしい心が溶けてゆく、

あしたは背骨を手術される
そのとき私はやさしく、病気に向かっていう
死んでもいいのよ

ねむれない夜の苦しみも
このさき生きてゆくそれにくらべたら
どうして大きいと言えよう
ああ疲れた
ほんとうに疲れた
シーツが
黙って差し出す白い手の中で
いたい、いたい、とたわむれている
にぎやかな夜は
まるで私一人の祝祭日だ

ー 詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』

 

石垣さんの詩は、どうしてこうも、、、心をギュッとつかむのだろう。
体の不調の詩がおおい。でも、強い意志も感じる。
甘える人がいない。ならば、一人で戦うしかない。
しかも、戦う相手は自分なのだ。。。 

 

石垣りんさんも、茨木のり子さんも、私にとっての出会いは50歳を過ぎてから。だから、しみいる気がする。

若い時に読んでも、わからなかったかもしれない。わかるとか、わからないというより、心が揺さぶられるようなことはなかったかもしれない。

 

詩でも小説でも、本当に作者がどう感じていたのかは、わからない。本人の解説があればいざ知らず、、、本人の解説があっても、作品を作ったときの気持ちと、それを解説したときの気持ちは、変わっているかもしれない。

人の心は変化する。

だから、亡くなった人の本は、何度読み返しても、もう、変わることない一つの解釈なのだ。だけど、生きている人の本は違う。書いた本人ですら、あとから自分が書いたことをわすれることだってある。

 

著者が亡くなることで、固まるものってある。

だから、亡くなった方を研究対象にするのは、ブレが少ない。

生きている人間を研究対象にすると、いつまでも変化がやまない。

 

そう、それが、一般的人間関係なのだ。

相手は変化する。

自分も変化する。

だから、正解などないのだ。

それが、人生なのだ。

 

それでも、Iwas born. は、普遍の史実だ。

 

岩波ジュニア新書、やっぱりいいなぁ。

こういう本を作るのも楽しいだろうな、なんて思う。

 

読書は楽しい。