『差別はたいてい悪意のない人がする』 by キム・ジヘ

差別はたいてい悪意のない人がする
-見えない排除に気づくための10章-
キム・ジヘ/著 尹怡景/訳
大月書店
2021年8月23日 第一刷発行


友人が読んでいて、面白そうだったので、図書館で借りてみた。タイトルの「差別はたいてい悪意の無い人がする」というのは、ドキッとさせられ、かつ、おおいにうなずいてしまう。無意識の偏見色眼鏡。差別していると気が付いていないから、差別してしまう・・・。

 

著者のキム・ジヘさんは、韓国・江陵原州大学校多文化学科教授(マイノリティ、人権、差別論)。移民、セクシュアル・マイノリティなどさまざまな差別問題に関心を持ち、当事者へのリサーチや政策提言に携わっている。本書は、初の単著で、16万部のベストセラーになったのだそうだ。

 

韓国と言えば、男女差別だけでなく、様々な差別が大きい国と言われている。2018年に出版されたチョ・ナムジュさんの『82年生まれ、キム・ジヨン』は、映画化もされたが、韓国で働きながら子育てをしている女性が、会社での差別、嫁としての差別のなか、精神の調和を崩してしまうお話だ。映画では、最後は社会は良い方向へ変わるかのようなハッピーエンドだけれど、原作は、悲劇のまま・・・、私の中での韓国における差別は、日本よりずっとひどい、、、、という印象だ。

とはいえ、実は、もっとひどいのは日本だ・・・。
世界経済フォーラムが発表した2022年のジェンダー・ギャップ指数の日本の総合順位は、146か国中116位で、韓国は、99位。男女差別でいえば、日本のほうがずっとひどいのだ。。。。

 

表紙裏には、
”差別も特権もありふれているからこそ見えない。韓国で16万部越えのベストセラー邦訳”とある。

読み始めて、しばらくしてから、もしかするとこの著者は女性か??と思って、著者紹介をみたら、やはり、女性だった。私は、韓国ドラマもみないし、韓国についてあまりよく知らないので、名前だけ見てもわからなかった。いや、韓国の人の名前に女性名とか男性名とかあるのかもしらないけど。
こういう本を書くのは、きっと男性に違いない、という思い込みが私の中にあったのだろう。そう、そういう思い込みこそが差別を生む・・・・。「へぇ、女性なんだ」という一言が、実は差別的発言ととられてしまっても仕方がない。

 

プロローグで、本書をかくきっかけになった自身の出来事が紹介されている。なかなか物事を決断できない自分のような人のことを「決定障害」という表現を聞いてから、自分でもよく使っていたのだそうだ。あるヘイト表現に関するシンポジウムで、討論者として参加したキムさんは、そこでも「決定障害」という言葉をつかった。そして、あとから参加者に「どうして決定障害という言葉をつかったのですか?」と聞かれて、自分が「障害」という言葉を差別的に使っていたことに気づかされた、という。
いっぽうで、「その言葉がのどこが問題なの?」という疑問も浮かんできた。そこで、障害者の人権運動をしている人にきいてみたところ、私たちがどれだけ日常的に「障害」という言葉を否定的ない意味を込めて使っているか、教えてくれたのだと。

「障害」という言葉は、「不足」や「劣等」を意味し、障害者は、つねになにかが足りない、劣った存在としてみられてしまうのだ、と。

日本語と韓国語ではちがいはあるかもしれないけれど、たしかに、日本語でもなにかがかけていたり、うまくできないことをもって障害ということがある。あまりポジティブな言葉ではないのだろう。発達障害摂食障害、、、、。

 

いくつかの差別の例があげられている。職場のネームプレートが正規社員と非正規社員では違う事などは、正規社員は差別とは思わないけれど、マイノリティー非正規社員から見れば、差別されている、、、と感じるということ。

差別というのは、差別によって不利益を被る側の話であって、その人たちを差別するおかげでメリットを得る側の人が差別を問題にするということはあまりないのだ。

 

もうすっかり韓国人ですね」というのは、国外から韓国に移り住んでいる移住者へ、
希望をもってください」というのは、障害者にとっての侮蔑表現の例として紹介されている。

これらの表現が、なぜ、侮蔑表現なのか。それは、いわれる側がどう感じるか、ということ。こういわれても、侮蔑とは感じない人もいるだろう。むしろ、嬉しく感じる人もいるかもしれない。でも、侮蔑と感じる人もいる、ということが重要なのだ。

どれだけ長く韓国でくらしていても、韓国人ではないよそ者だから、「すっかり韓国人」という表現になる。自分との間に壁をおいている。
「希望をもってください」は、現在のその人の生活に「希望がない」と思うから発せられる言葉と受け止められる。

何気ない言葉が、受け止める側によって、侮蔑や差別となることがあるということ。ほんとに、気を付けないといけないな、と思った。

 

目次
Ⅰ 善良な差別主義者の誕生
1章 立ち位置が変われば風景も変わる
2章 私たちが立つ場所は一つではない
3章 鳥には鳥かご見えない

Ⅱ 差別はどうやって不可視化されるのか
4章 冗談を笑って済ませるべきではない理由
5章 差別に公正はあるのか?
6章 排除される人々
7章 「私の視界に入らないでほしい」

Ⅲ 私たちは差別にどう向き合うか
8章 平等は変化への不安の先にある
9章 みんなのための平等
10章 差別禁止法について

 

気になったことを覚え書き。

アメリカの人種差別の改善についてアンケートをとると、白人は「かなり改善された」と答え、黒人は「あまり改善されていない」と答える傾向が続いているのだそうだ。不平等な状態から抜け出す側と、特権が奪われていく側では、変化に対する印象がことなるということ。
 ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーのプロスペクト理論における「損失回避バイアス」は、この傾向も説明できるという。人は、損失の可能性と利得の可能性のうち、損失の可能性により敏感に反応する、ということ。
 特権を失った側は、大きな変化、ととらえるのだ。そして、残っている差別にも気が付きにくい。

 

・人は、集団に所属意識を持ち、その集団を自分のアイデンティティの一部として受け入れる。そして、その集団の固定概念が、自分自身に対する固定概念となる。その固定概念が行動に影響を及ぼす。日本人だから、日本人としての行動・・・。

 

・「ジム・クロウ法」とは、19世紀後半~20世紀半ばまで、アメリカで白人による黒人の人種的分離を正当化した法律の通称。

 

・誰かを侮蔑するユーモアが面白いのは、その対象より自分が優れているという優越感を感じられるからである。

 

 わたしは、そういうユーモアがわからない。仮装パーティーだと言われて、黒人に扮装したり、女装したりするユーモアもわからない。どちらかというと、不快な気持ちになるのだ。女装したり男装したりするのが、笑いをとるためでないのなら不快な気持ちにはならないのだけれど、、、。どうして、そう感じるのかは自分でもよくわからない。パーティーの席だと、不快感をあらわにするわけにはいかないので、あまり口にしなかったけれど、、、。亡くなってしまったけれど、上島竜平さんが熱いお湯に落とされるギャグも、私には何が面白いのかさっぱり理解できなかった。あんなものを電波で流す価値がどこにあるのか、私には理解できない。
これも、固定概念なのだろうか?いや、あれはどうみてもいじめだろう。

 

・韓国の高校で、成績別クラス制度は、国家人権委員会が差別行為と判断した。成績の悪い生徒に対する不合理な差別と判断された。学校は習熟度別クラス編成だと主張したけれど、特クラス生徒の88.9%がクラス編成に満足しているのに対して、平クラス生徒の78.5%が不満を感じていたのだという。教師たちは、平クラス生徒への関心が薄かったのだ。

 

アメリカの黒人差別に関して、1964年12月、アーサー・ゴールドバーグ最高判事の言葉。
公共施設への平等のアクセスが拒否された瞬間、個人の尊厳は損なわれてしまう。公民権法の主な目的は、このような問題を解決することにある。差別は、単に紙幣や小銭、ハンバーガーや映画の問題ではない。人種や肌の色を理由に誰かを社会の構成員として受け入れないとするとき、その人が感じる侮蔑感、挫折感、羞恥心の問題である

 

 

メルビン・ラーナーの「公正世界仮説」。人々は、世の中は公正で、人はだれでも努力した分だけ報われると信じるものだということ。問題は、人が不正義な状況においても、この仮説を修正せず、「被害者を批判」する方向に物事を理解するということ。不幸な状況に置かれた被害者は、もともと悪い特性を持ち、間違った行動をしたからそうなったのだ、と。
つまるところ、世界は公正ではないのだ。それを認めないことが公正な世界の達成をより遠ざけてしまう。
 公正世界仮説は、実に深い。男女差が歴然とある組織の中で、公正世界仮説を信じて頑張る女性は、なにかを犠牲にしていたとしても、自分がしていることを正しいと信じたい。もっと頑張れば自分も認められると信じたい。私が入社したのは一応は男女雇用均等法の後だけれど、男女に差別がなかったかと言えば、嘘だ。人々の常識の中に差別が歴然としてあったのだ。女性だけ、寿退社のお祝いがあったり。総合職と一般職というなの差別だったり。。。

残念ながら、世界は公正であるというのは、事実ではない。。。。アンコンシャスバイアスは、どこにでも存在する・・・。そして、差別されている側の人が何かを達成すれば、「○○なのにすごい」という差別的賛辞が送られる・・・。「女性なのに」という枕詞は不要だ。でも、自分だって使ってしまうことがある・・・。

 

正義とは、真に批判する相手が誰なのかを知ること。かれが、または何が変わるべきなのかを正確に知る必要がある。そして、知るためには、マジョリティはマイノリティの話に耳を傾けなければいけない

 

・マイノリティは、能力をさらに強化するように求められる。女性だから、移住者だから、障害者だから、セクシャル・マイノリティだから、人一倍頑張ることを要求される。そして、個人が不屈の努力で自分の不利を「克服」した経験を、社会は成功神話として称賛する


ドキリとする言葉、満載の一冊だ。 

 

世界は公正ではないのだ。まずは、そのことを認めないことには、歴然とした差別が当たり前と感じてしまう。だれかが、声をあげなければ・・・・。

 

無意識の差別は、コワイ。

自分にも色眼鏡があることを認めることからはじめよう。

自分にとっての常識は、誰かにとっての非常識。。。