『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』 by  松岡正剛

日本文化の核心
「ジャパン・スタイル」を読み解く
松岡正剛
講談社現代新書
2020年3月20日 第一刷発行

 

編集工学研究所所長イシス編集学校校長の松岡さんの2020年の著書。とある仲間と話題になったので、読んでみた。

松岡さんは、日本文化研究の一人者でもあり、独自の日本論を展開されている、と、本書の紹介には書いてある・・・。知識は豊富だし、私も一時、イシス編集学校に参加してみようかと思って、無料授業を受けたことがある。その時、ケーススタディーというか、一つの編集事例みたいなことをやったのだけれど、何だこりゃ?と思って、、、、まぁ、要するに、ピンとこなかったのだ。私の他、数人の参加者がいた。Web上での授業だったけれど、お題がだされて、それぞれが自分の回答を出すって感じで。突飛で、奇抜であることが奨励されるというのか、、、、これは違う、と思って以降、ちょっと興味を失った。

最近では、佐藤優さんとの共著『読む力』を読んだけど、実は他に購入して積読になっている松岡正剛さんの著書もある。

megureca.hatenablog.com

 

本書は、松岡さんによる日本文化の正体、核心を解説した本。新しい切り口で解説しよう、ということで、16の切り口でまとめられている。それが、本の構成。

 

感想。
うん、なるほど。また、色々な情報が、ドットとドットがつながったなぁ、という感じ。でも、なにか、物足りなさを感じる。確かに、すごい知識の量で、次々と様々な本や歴史上の人物が引用され、繋がっていく。なんというか、情報がまさにdataであって実態っぽくないというのか。知識に基づいた話であって、経験に基づいた話ではないってことなのか?
すごい、勉強になることがたくさんある。だけど、ちょっと、ひいた視線で読んでしまう感じ。
手放しで、すごい本!っていう感じではないのだ。。。いや、きっと、すごい本なんだと思うけど、私にはそれが理解できないってこと。
ま、でも、面白かった。
ちょっと、あえて批判的立場として読むと、たしかに過去の文献にはそうかいてあるのだろうけど、だれも、証明できないじゃないか、なんて突っ込みたくなったり。ま、著者の解釈だからね。別に、いいとか、悪いとかではなく、一つの視点。松岡さんの視点。彼自身が、「歌舞伎たい」人、なんだな、と思った。

 

目次
第一講 柱を立てる
第二講 和漢の境をまたぐ
第三講 祈りとみのり
第四講 神と仏の習合
第五講 和する/荒ぶる
第六話 漂泊と辺境
第七講 型・間・拍子
第八講 小さきもの
第九講 まねび/まなび
第十講 或るおおもと
第一一講 かぶいて候
第一二講 市と庭

第一三講 ナリフリかまう 
第一四講 ニュースとお笑い
第一五講 経世済民
第一六講 面影を編集する

 

それぞれの講は、タイトルだけ見るとわかるようなわからないような切り口だけれど、目次にも本文の中にも、それぞれどういう意味なのかが簡単にしめされている。


第一講 柱を立てる、というのは、「古代日本の共同体の原点『柱の文化』から始めてみよう。」という具合に説明がある。

柱という言葉は、鬼滅の刃でもポピュラーになったけれど、確かに、日本では神様の事を「柱」 で数えたり、「一家の大黒柱」とかいってみたり、「柱」をたてることを大事にする文化があるという話。建物としての柱はわかりやすい物理的な支えだけれど、物理的なことだけでなく、時代の軸となるような柱によって、日本という国が支えられてきたという。例えば、原始古代からの日本の柱となってきたのは、江戸時代の「黒船」のように海外からやってきたもの「稲作」「鉄」「漢字」という技術や文化がやってきて、それを中心にして国が発展した。古事記の神々の話も引用されていて、なかなか面白い。「柱が立つ」文化があれば、「結び」の文化もあって、地鎮祭などでは今でも注連縄(しめなわ)をして結界をはって、神職祝詞を奏上する。注連縄は、結果を作るための結び。結びは、「始原からの結実」を意味していて、注連縄、水引、髷、帯や紐の結び、などにその思いが潜んでいるのだそうだ。そして、息子や娘という言葉も、「ムス・ヒコ」「ムス・ヒメ」からきているのだと。
へぇ、、、なるほどねぇ。
そして、柱を立てるということを大きく意識した歴史の一つが、明治維新。「王政復古」といって、古代の王権を現在に復活させようとした。しかし、古代の王権とは違った、近代的価値観としての帝国や憲法、議会を立てるべきだ、、、という考えもでてきた。そして、「立身」「立国」「立志」「立憲」などの言葉が生まれた。

ほほう。
日本人は立てるのが好きらしい・・・。

福沢諭吉は、「一身独立して一国独立すること」学問のすすめの中で書いた。まさに、国民一人一人が立ち、総じて一国が立つべし、と考えた。

更に時代が行くと、柱を立てる思想は、だんだんと右翼化していく。そして、石原莞爾満州国構想などにつながっていったのだと。柱を立てるという思想は、近代社会においては、国粋主義や八紘一宇の思想の温床ともなっていった・・。

「柱を立てる」という日本人の傾向から、右翼化思想につながったのだという松岡さんの解説。ふ~~ん。そうなのかなぁ、、、、。たしかに、それは関係はあるかもしれないけれど、 べつに他の思想についても同様に柱とされていったものはあるのではないのかなぁ、、、、と思った。

と、全体に、それぞれの講について、松岡さん流の解説がついている。

 

面白いとおもったものをちょっとだけ、他にも覚え書き。

・第八講 小さきもの。日本人は小さいものが好きだって話。一寸法師、桃太郎、かぐや姫ポケモン、、、、。日本のミニマリズムだと。ガチャガチャだって、あの小さなフィギャアが可愛い。世界には、白雪姫と7人の小人、親指小僧のように、小さい者が活躍したり成功する話はあるのだけれど、日本神話には、「スクナヒコナ」というちっちゃい神様もいたのだそうだ。
 ま、私も小さいもの好きだ。。。こまごまとしたちっちゃな置物を飾るのが嫌いではない・・・。増やさないように気を付けているけれど・・・。小さいものをつくるのも好きだ。今でも、小さい折り鶴をつくるのは得意だ。1辺2cmもあれば、余裕で鶴が折れる。
 松岡さんが他にも挙げているのが、小型カー。「小枝」、「ポッキー」といった細いお菓子。そして、、なぜか、コギャルまで。う~~ん、コギャルのコは、小さくてかわいいっていうのとはちょっと違うだろう・・・・。


・第九講 まねび/まなび で、世阿弥が説く学びの本質は、「ものまね=まねび」こそが「まなび」の本質ではないかという話。世阿弥能楽芸能論として風姿花伝が有名だが、そもそも、能の世界では舞台の上で死者や亡霊を演じて見せる。死者や亡霊を真似している。真似することでこっけいにおもわせて笑わせるのが芸能の舞台。真似ることが学ぶこと。からだをつかって真似ることが学ぶこと。 
 明治時代、お雇い外国人をやとって、西洋を真似することで西洋を学んだ日本。日本は、やっぱり真似ることで学ぶのかもしれない。
「まねび」と「まなび」。これは、教育論でもよく聞くはなしだ。ここでも福沢諭吉の『学問のすすめ』が引用されている。

”「天は人の上に人をつくらず。人の下に人をつくらずと言えり」が有名ですが、諭吉がいいたかったことは、その後に書いてあることです。人は生まれながら貴賎や上下の別はないけれど、現実には貧富の差や身分の上下がまかり通っている。それを少しでも平等なレベルに持っていくには、人が学問を身につけたかどうかにかかっている。だから学問、特に読み書きの力、計算の力、基本的な道徳観、そして実学の習慣を身につける必要がある、と言っているのです。”
と。

やっぱり、学問は必要なんだよ。うん。

数年前、十代の子供達との懇話会のようなものに参加したとき、おきまりの「なんで高校にいかないといけないんですか」とか「大学はいい大学にいかないとだめですか」といった質問がストレートに飛んできたことを思い出した。 今の時代においては、義務教育があり「平等なレベル」を目指すこととは言えないけれど、やっぱり、「あなたが学んだことは、だれもあなたから奪うことはできない」、ってことかなぁ。
あの時は、「自分にとって、ワクワクする世界をめざせばいいんじゃない」なんて言ったけど、今ならもう少し旨いことが言えそうな気がする。だれかを真似するんでもいいんだよって。そうしているうちに、自分の血肉になる。身についた知識やスキルは、例え無職になっても、文無しになっても、だれもあなたから奪うことはできない。だから、学べる時には全力で学んでごらんって、中学生、高校生に伝えたい。

 

とまぁ、こんな感じで、色々な松岡さん流の日本文化の解釈が並ぶ。うんそうだな、とも思うし、別にそれは日本に限ったことではないのではないかとおもったり。

色々と日本について考えてみるきっかけとしていい本だと思う。切り口の参考として、ってこと。この考え方があっている、あっていない、ではなく、こういう切り口で日本文化をとらえてみると、新しい発見があるかもな、って。

 

やっぱり、私は日本で生まれて、日本で育った、日本人なのだ。いくら英語を学んでも、思考は日本語になっている。日本文化の最大の特徴は、やっぱり、漢字・ひらがな・カタカナのある、日本語、かな。

 

やっぱり、読書は楽しい。