禅の心: 住職に叱られたのは・・・。

住職に叱られた・・・・。

 

全生庵での春季坐禅に出席してきた。

境内の桜の木はすでに葉がでているものの、少し残る花が、風に吹かれて花びらを散らしていた。風の強い今日この頃。坐禅中も、外の風の音、扉の隙間を抜ける風の音が響いていた。雑念に取りつかれるのはいつもの事?だけれど、ぴゅ~って、風の音を聞いていると、気持ちが風の音に奪われていく坐禅となってしまった・・・。

 

今回、手元には「天上天下唯我独尊釈尊がお生まれになったときの言葉について、資料が配られていた。いつもなら、20分、2回の坐禅が終わった後、資料についてのお話があるのだが、今回は違った。

 

住職は、

”手元に、「天上天下唯我独尊」の資料があると思いますが、それは後程読んでいただければ結構です。”といって、しばしの沈黙の後、さらに続けた。

 

”先ほど、坐禅が始まる前に、珍しくお手洗いを覗きましたところ、スリッパが、あちこちに散らかっておりました。

皆さんは、ここに何をしにいらしているんですか?

と、怒気を含んだ声で話し始めた住職。。。

 

本堂に上がる前の階段下で、住職が参加者がお堂にあがるのを待っている間、どなたかがトイレに行かれ、その際に開いた扉の向こうに散らかったスリッパが目についた、ということだった。

 

そして、永平寺の第78代住職、宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師の話をされた。

 

「禅の心というのは、お経を全部覚えるとか、公案に全部答えられるとか、そんなことでたどりつくものではない。日々の生活の中で、教えに沿った行動ができるようになってこそ、禅人といえるのだ。」

ということ。

 

スリッパ一つ揃えられない人が、坐禅して何を得ようというのか。。。

と。。。

 

あいたたたた、、、、。

一緒にいた多くの人は、「自分の時はきれいに並んでいたぞ」とか「オレは揃えたぞ」とか、思っておられたことだろう。私も、「女子トイレは、私が出る時にそろえたぞ」と心の中で思ってしまった。

住職が続けて言われたのは、

”自分の履物をそろえるのはもちろんの事、他のものがまがっていればそれもそろえるのが当然です。まがったものをそのままにしておくというのは、心の中がまがっているということです”

と。

今回の参加者の多くは、住職にとっても父親世代に近い人々だ。

住職は、

”皆さんの多くは、私にとっては父親のような方々ですが、年上であるとか、年下であるとかは関係なく、間違っていることは間違っていると言います。”

と。

 

あぁ、、、。本当にそうだ。住職がおっしゃることは、正しい。

 

例え年下でも、部下であっても、正しいと思えば相手に教えを乞うし、どれだけ年上であっても、上司であっても、間違っていればそれを正すのが、まっすぐな道ということだろう。

 

禅の心は、日々の生活に行動として取り入れてこそ。

社内で廊下に落ちているゴミを拾うか拾わないか。。。さっと拾えるものなら自然と拾える行動ができる人間になれているのか。。。

履物をさっとそろえる習慣ができているのか。

 

久しぶりに、ぴりりときいた住職の一喝だった。

 

玄関の履物は揃えましょう。

玄関は、要の関といわれる。

家にとっては、入口であり、出口。

良いものを取り入れるには、キレイに整えた玄関で迎えましょう。

 

毎日、玄関の履物を揃える。

トイレのスリッパは揃える。

と、心に誓った一瞬だった。。。

 

できることから、禅の取り組み。。。

久しぶりに怒られて、気が引き締まる思いだった。

住職、ありがとうございます。

 

ちなみに、「天上天下唯我独尊」の話は、釈尊が生まれてすぐ、7歩歩いて右手で天を指し、左手で地を指して口にした言葉と言われている。が、生まれたての赤んぼがそんなことをするわけがなく、後世の作り話に過ぎない。本当は、「オギャー」といったはずで、大事なのはこの「オギャー」には、気兼ねも遠慮も誇張もなく、ただ天地一杯、無心清浄な生命の表現、生命の尊厳に他ならないということ。

自己に尊厳をみる者は、他のすべてのものに尊厳を見ることのできるものである、という話。

生きとし生けるもの、全ての生命に貴賤軽重はなく、全ての生命にその尊厳を見ていくのが根本の教えである、ということ。

 

教えを実践する場は、日々の生活の中にたくさんあるのだ。坐禅だけが、禅の道に近づくことではない、と、痛感させられた一日だった。

4月だ。

心新たに、取り組もう。