『日本という方法  おもかげ・うつろいの文化』 by  松岡正剛 (その3)

日本という方法
おもかげ・うつろいの文化
松岡正剛
日本放送出版協会
2006年9月30日 第一刷発行

 

目次
第1章 日本をどのように見るか
第2章 天皇と万葉仮名の語り部
第3章 和漢が並んででいる
第4章 神仏習合の不思議
第5章 ウツとウツツの世界
第6章 主と客の数寄の文化
第7章 徳川社会と日本モデル
第8章 朱子学陽明学・日本儒学
第9章 古学と国学の挑戦
第10章 2つのJに挟まれて
第11章 矛盾と葛藤を編集する
第12章 日本の失敗
第13章 失われた面影を求めて

 

一昨日、昨日の続き。

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第8章は、朱子学陽明学儒学について。儒教という枠で同じようにとらえがちだけれど、それぞれがそれぞれに異なっている。儒教は、孔子孟子の教え。儒学は、孔孟の教えを学ぶことを意味する。
かつて(いまも?)学校にある二宮金次郎の像。あの二宮金次郎が読んでいるのは、『大学』という四書五経の一つ。『大学』は、中国で科挙、進士科にすすむための入門書のようなものだった。

四書:『大学』『中庸』『論語』『孟子
五経:『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』

大学は、もともと『礼記』の一部だったものを朱子が自立させて『大学』とした、だから、朱子学の入門テキストでもあるのだ。「己を修めて人を治める」ための必読書。金次郎が読んでいたのは朱子学入門書だった、というわけだ。

江戸幕府は、林羅山らに命じて、朱子学の国家形成的なイデオロギーを導入しようとした。そこに、日本儒学のスタートがあった。と同時に、陽明学も入ってきた。陽明学とは、朱子に遅れて340年後に、王陽明朱子学に反旗をひるがえしてできた思想知行合一の行動思想が有名。現在のビジネススクールでも「知行合一」はしばしばもちだされる。リーダーたるもの、「知行合一」が大事である、と。朱子学は、「理」をもとにした理念の話が中心で、どう行動するかが示されていなかった。そこで、王陽明が「心」を中心に、行動原則について陽明学をつくっていった。王陽明は、人生の辛苦を嘗めた後に政治思想に取り組んでいったので、より実践的な思想になっていったのだろう。そして、その思想が、現在のビジネススクールでも展開されている。

陽明学は、行動を伴うことが教えであり、吉田松陰真木和泉西郷隆盛なども取り組んだ。ただ、それは、危険な行動に走るという思想とも考えられていた。行き過ぎれば、理屈が通らなくても正当化を主張し、2・26事件につながったり、切腹の美談になったりしてしまう。そうして、右翼的な言動や国家主義的な言動にも、陽明学が使われるようになったという。

う~~ん、そうなのかなぁ???
ちょっと、ここは、よくわからない。安岡正弘三島由紀夫陽明学にかぶれた人かのようにかかれているのだが、う~~ん、ちょっと、違和感を感じる章だった。

 

第9章では、国学賀茂真淵は、朱子学的な「理」を少しはなれ、世の中には「理」では解けないものもがあるということを認めた。そして、「わりなきねがい」つまりは、割り切れないことがあることを前提に、政治の世界も考えるべきではないかとした。そこから「安波礼(あはれ)」につながる。漢からくる「からごころ」を離れ、日本の面影にひそむ「あはれ」を感じる必要があるとした。
その流れは、本居宣長の「もののあはれに繋がっていく。国学の起こり。宣長は、和歌の本質には神代の世界が内在していると考えていた。そして古事記を古語のまま日本の面影をのこして、解釈できるはずだと考えた。漢語をつかわずに『古事記』を読み切ること。それが宣長がめざしたことだった。そして、古事記伝ができあがる。

 

第10章では、二つのJ。ジャパンとジーザス。

日本は海国であるけれど、海防にあまり意識を集中してこなかった。1792年にラックスマン根室に来ても、1804年にレザノフが長崎に来ても、幕府は、ある意味ほったらかしにした。松岡さんは、なぜ海国なのに海防にあまり意識してこなかったのかは謎である、と言っている。海をうたった和歌はあっても、海洋にでていった歌はほとんどない。海洋美術や海洋音楽もあまりない。海国イギリスが商本主義で植民地主義だったのに比べると、日本は国内の治水、産物育成、加工工夫に熱心だった。だから、外交というダイナミズムを欠いてきた。

あ、、なんか、ちょっとわかる気がする。島国根性といわれることがあるけれど、別に悪いこととは思わないけれど、、、たしかに、イギリスの島国性とはちょっと違う。もちろん、イギリスはゲルマンが入ってきたり、ローマ人が入ってきたり、と歴史的に外からの侵略をうけたということがあるのだろうけれど、、、。

 

本章では、島崎藤村『夜明け前』について多く言及されている。幕末の日本が、何を取りこぼしたのかを知るのに意味ある物語なのだと。漱石にも子規にも欠けていた何かを書きしるしているのが、島崎藤村『夜明け前』なのだと。

なるほど。やっぱり、『夜明け前』は名作なのだな。。。ひしひしと、その重みが伝わってくる気がした。読んでいてよかった。

たしかに、こうして『夜明け前』が取り上げている文章は、読んだ後と前では感じる重みが違う。これも、点と点がつながる楽しさだなぁ・・・。

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そして、ふたつのJの間で揺れていた内村鑑三は、キリスト教神道国学をつなごうという試みもしている。そして、「小国主義」を唱えた。日本には日本らしいサイズがあるだろう、と。この、サイズの考えは、後に石橋湛山の思想にも受け継がれていく。

 

石橋湛山については、私もまだまだ知らないことが多いのだが、知人が大学時代にゼミで読んで感銘を受けたと言っていたので、石橋湛山評論集』(岩波文庫を読んでみたいと思っている。昭和初期から戦時中も一貫して「小日本主義」を唱え続けたのだそうだ。しかし、戦争をとめることはできなかった、、、。

 

第11章では、矛盾と葛藤。西田幾多郎の生涯は、「禅」と「無」だった。西田の禅の師は雪門玄松(せつもんげんしょう)で、生涯の同級生は鈴木大拙。雪門については、水上勉さんが『破蛙』という作品でその日々を克明に描いているのだそうだ。水上勉さん。まだ、著書を読んだことがないので、いつか読んでみよう。。。

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西田は、「善の研究』を書く直前、次女と五女を相次いで亡くしてしまう。これが禅機となり、覚悟となった。命の儚さに、人生の矛盾と葛藤に、西田は「疑うに疑いようのない直接の知識」を見る気になった。
人生は、矛盾と葛藤の連続である。

 

第12章は、日本の失敗。戦争へすすんでしまったこと。負けたこと。。。満州で暗殺された伊藤博文満州への想いは、古代からの大陸へのこだわりと切り離せない。ちょっと国際感覚に疎かった日本。日露戦争も、イギリスの思惑にはまったようなもの。イギリスは日本にアジアのストッパーになってもらえればよかった。別に、日本の繁栄を応援したわけではないのだ。そして、中国の反日感情のさらなる高まり。大隅内閣がだした屈辱的要求を袁世凱がうけたことで、中国の民衆の間には日本に対する嫌悪が一気に吹き出す。政府はあわてて弾圧と懐柔に乗り出すが、この時燃え上がった反日感情は、その後の日中関係を回復不可能のところまで追い込んだ。引っ込みがつかなくなって、戦争の泥沼へ・・・


第13章では、「日本という方法」で自身の思想や行動に取り組んだ4人の日本人が紹介される。野口雨情、金子光春、九鬼周造司馬遼太郎


詩人・金子光春は、「日本人のもっている、つじつまの合わない言動の、その源」を考えて、高度成長期に浮かれていた日本を振り返っている。作品『日本人の悲劇』や『絶望の精神史』を参照。

 

野口雨情もまた、詩人で、若いころは内村鑑三の『東京独立雑誌』を熱心に読んでいた。内村に感化され、「はぐれた子」の心情に何かをうったえようとする感覚が野口雨情の歌に現れる。「赤い鳥」「十五夜お月さん」「青い目のお人形」「七つの子」。。。そうだ、「シャボン玉」も、子供を亡くしたあとの雨情のうた。

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九鬼周造は、哲学者。ハイデルベルク大学に留学してリッケルト、新カント派に学び、フッサール現象学を学ぶうちに、「同一性」(神の下部として自己を確認すること)を確信しすぎていることにいらだち、「異質性」の重要性に向かうようになる。九鬼の父親は、九鬼隆一といって、近代日本最初の文部官僚。最初の駐米特命全権公使で、フェロノサと岡倉天心東京美術学校開設を後押ししたことでも有名。母親は祇園出身の初子で、隆一が駐米中に周造を身ごもり、日本で出産できるようにと天心を付き添わせて初子を日本に帰した。ところが、初子と天心は好意を抱き合ったことからスキャンダルとなり、天心は孤立する。せっかくつくった東京美術学校の校長の座を追われた天心は、横山大観菱田春草らと日本美術院を起こす。と、そんなごったごたのなかで生まれ育ったのが周造だった。そして、「寂しさ」「恋しさ」とは何か、としきりに考えるようになり、「失って知る異質性」という感覚にいきつく。日本は、「異質なものとの出会い」が必要な国だったのだと考える。

 

司馬遼太郎は、言うまでもなく、戦争を書き続けた人。明治国家づくりを頂点として、そこに命をささげた人たちを書き続けた。しかし、明治は自ら崩壊していく。その核心はぽっかり「空(うつ)」になっている。その「空」を何で埋められるかを探し続けたのが、司馬遼太郎だった。

と。 

 

やたらと長くなってしまったのは、歴史を通してお浚いしてみようと思って読んだから。

日本史の勉強として読むと、ストーリー性が感じられる。一つ一つのテーマを深堀しようと思うと、どこまでも深くはまり込んでしまう。そんな一冊だった。松岡さんの言葉は、点と点のつながりが幅広い。だから、すごく大きな世界に導いてもらえるような気がする。一方で、それはあなたの解釈でしょ、と思いたくなるような私には理解を超える話もよく出てくる。それもまた、いいとか悪いとかの二律ではなく、ウツロイの中で考えるってことなのかもしれない。

 

白黒つけすぎない。ウツロイの中で生きていく。そんな風土が日本にはにあっているかもしれない。季節がウツロウ国だから。何かあれば、水に流して新しく始める。その潔さも、日本かも、ね。

 

ちょっと、アタマを使って読むと、どこまでも深く追いかけたくなる一冊。けど、図書館で借りるくらいで十分かな。

うん、楽しんだ。

読書は、楽しい。