『14歳からの哲学  考えるための教科書 』 by 池田晶子 (その1)

14歳からの哲学 考えるための教科書 

池田晶子

株式会社トランスビュー

2003年3月20日 初版第1刷発行 

2006年12月25日 初版第16刷発行

 

 先日読んだ『言葉を生きる』と同時に図書館で借りてみた池田さんの本。

 

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 実は『言葉を生きる』(ちくまQブックス)の最後には、次に読んでほしい池田さんの本 がいくつか紹介されていた。その1冊目が、この『14歳からの哲学 考えるための教科書』だった。たまたま手にした本が、これだった。 

 

一応 他の本も覚書 しておくと、

 

『14歳の君へ どう考えどう生きるか』(毎日新聞出版 2006年)

『考える人 口伝西洋哲学史』 (中公文庫 1998年)

『残酷人生論』( 毎日新聞出版 2010年)

『暮らしの哲学』( 毎日新聞出版 2007年)

『無敵のソクラテス』(新潮社  2010年)

 

いつか、読んでみようと思う。

 

本書のタイトルは「14歳からの」となっているが、あとがきでは「14歳の人へ」というページと、「14歳以上の人」へ というページがあり、語り口は14歳がわかりやすいようにと工夫しているが、内容的なレベルは少しも落としていない、と書いている。50代の私が読んでも、うむむむ、、、、と考えさせられる内容がたくさん。久しぶりに、こういう哲学っぽい事を考えた気がする。語り口がやさしく、中学生でもわかる事例で説明してくれるので、読みやすい。「生きること」についてクラスで話し合ったとして、「生きていることは素晴らしい」派と「生きていることはつまらない」派がいたら、どういう議論になるか、という例とか。議論が収拾つかなくなると「いろんな意見があっていい」なんて意見が飛び出したりするのではないか、って。うん、あるある。ちょっと、思考放棄。そして、クラスのひとりが、「生きていることが素晴らしいとか、つまらないとか思うことがどうしてできるのか。それが僕にはわからない。だってそれを思うことができるのは僕が生きているから なんだけど、僕には僕が生きているということがどういうことなのかがわからないんだ。でもそれがわからなければ、生きていることが素晴らしいとかつまらないとか思うことがどうしてできるんだろうか」といったとしよう、、、と。わかるようでわからない。一方で、至極あたりまえのことのような・・・。

「生きていることは素晴らしい」派も、「生きていることはつまらない」派も、「生きている」事は共通している。では、その「生きている」って、どういうこと?

 

そして、「考えること」と「思うこと」は違うのだ、という話になる。

どうだろう。大人でも、う~~む、ってうなっちゃわないだろうか。

 

心臓が動いていれば生きているというのか?

脳死は生きていないのか?

 

生物学的な生きていると、人として生きているって、なにか違うのか???

 

死体と生きている人の違いは??

死体に死はあるのか?

死って?生きるって??

 

うわぁぁーーー。わかんなーーーい。

そして、まぁ、生きているからいいか。お腹すくから生きている。と思考放棄。

ま、それでいいときもあるんだけどね。

 

いやぁ、なかなか、面白い本だった。こういうの好き。でも、こういう本は、誰かと語り合うより、一人でとことん考えるための本だと思う。

 

目次

Ⅰ 14歳からの哲学[A]

 1 考える(1)

 2 考える(2)

 3 考える (3)

 4 言葉(1)

 5 言葉 (2)

 6 自分とは誰か 

 7 死をどう考えるか 

 8 体の見方 

 9 心はどこにある 

 10 他人とは何か

 

Ⅱ 14歳からの哲学[B]

 11 家族

 12 社会

 13 規則

 14 理想と現実

 15 友情と愛情

 16  恋愛と性

 17  仕事と生活

 18 品格と名誉

 19 本物と偽物

 

Ⅲ  17歳からの哲学

 21 宇宙と科学

 22 歴史と人類

 23 善悪 (1)

 24 善悪 (2)

 25 自由 

 26 宗教 

 27 人生の意味(1)

 28 人生の意味(2)

 29 存在の謎(1)

 30 存在の謎(2)

 

 あとがきの池田さんの説明によると、Ⅰは「原理」、Ⅱは「現実」、Ⅲは「真実」という視野を前提でかかれたそうだ。現実と真実との違いというのも、これまたなかなか難しい・・・。

 

特に心に響いたところを覚書。

 

・「10 他人とはなにか」から。

”自分とは何か。 自分であるところの元々の自分は、ただ自分だったんだね。 他人がいるから自分があるのではなくて、他人がいなくても、他人がいるかいないかに関係なく、その自分としてあるということだ。(中略)自分が絶対的であるというのは、考えているのは自分だし、見ているのも自分である、自分でないものが考えたり見たりしているということはありえない。そういう意味で 絶対的だということだ。(中略)

 自分が存在しなければ世界は存在しないんだ。 自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。世界が存在するから自分が存在するんじゃない。世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。つまり、自分が世界なんだ。”

 

14歳にこの意味がわかるか???うん、きっと大人よりもわかるかもしれない。存在については、『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)とか、『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ)とか、小難しい本はたくさんある。でも、「みたり考えたりしている君がいなければ、世界は存在しない」といわれると、うん、そうかも、、、って思う。

 

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自分がいるから世界がある。でも、自分はどこからが自分??

 

この章の終わりは、「この章は、いよいよ難しかった。人が一生かけて考えるに値する問題なんだから、当然だ。これ以上わかりやすくは言えないのは、そもそもわからないことについて言っているからなんだ。わかるかな?奇妙な感覚だけでも、忘れないでおいてください」となっている。

 

・「13 規則」から

規則の話から、「自由は自分の内側にしかないもの。」という話になる章。

”君は規則と言うものは必要なものだと思うだろうか。それは守らなければならないものだと思うだろうか。もし君が廊下を走りたいのだったら、廊下を走ってはいけないと言う規則なんか必要じゃないと思うだろうし、だから本当は守りたくはないんだけど、規則だから守らなければならないとも思うだろう。でももし逆に、君が別に廊下を走りたいと思わないのだったら、そんな規則はあってもなくてもどっちでも良いはずだよね。なぜならもともと走りたいとは思っていないのだからだ。だからたとえその規則があったとしても、その人が走らないのは、規則を守らなければならないから、守っているわけではなく、結果として守ることになっているだけだと言うことになる。”

 

極端なことをいえば、殺人を犯してはいけないというルールは、殺人を犯したいと思っていない人にとっては、どうでもいいことで、結果としてルールを守っているだけの事、ということ。自分のしたいことをする自由が規則で犯されると思うとすれば、それは、その規則を犯すことをしたいと思っているからだ。学校で髪をそめちゃいけないとか。どこが悪いの?髪を染めることのなにが悪いの??

 

池田さんは、それは、「悪法」だと言っている。でも、悪法だったとしても、本当の法は自分の中にある。校則にたてついて髪を染めたっていいけど、そんなことをするより校則だったら守ってやってもいいぜ、くらいの方がかっこいいって。それを選択するのが君の自由なのだ、と。

 

ただ、髪を染めたいから染める。はたして、それがかっこいいことなのか。規則をやぶることがかっこいいことなのか?それを決めるのも君の自由だ。

 

池田さんは、どこまでも、「自分のあたまで考えろ」と言っている。

長くなってしまうので、続きはまた明日。