『若き数学者のアメリカ』 by 藤原正彦

若き数学者のアメリ
藤原正彦
新潮文庫
昭和56年6月25日 発行
平成15年9月30日 28刷改版

平成18年4月5日 33刷


藤原さんご自身が、自分の著書の中でも名作?!といっていたか、良く書けたと言っていたか、、、、さだかではないけれど、読みたいと思ってメモを付箋で壁に張ったまま、しばらく忘れていた。掃除をしていて、自分のメモが目に入り、図書館で借りてみた。

 

表紙の裏には、
”1972年の夏、 ミシガン大学に研究員として招かれる。セミナーの発表は成功を収めるが、冬を迎えた厚い雲の下で孤独感に苛まれる。 翌年春、フロリダの浜辺で金髪の娘と親しくなり、アメリカに溶け込む頃、 難関を超えてコロラド大学助教授に推薦される。知識は乏しいがおおらかな学生たちに週6時間の講義をする。自分のすべてをアメリカでぶつけた青年数学者の躍動する体験記。”
とある。

 藤原さん、1943年(昭和18年) 旧満州新京生まれ。東京大学理学部数学科大学院修士課程修了。お茶の水大学理学部教授。本書は、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。お父さんは新田次郎さん、お母さんは藤原てい
お母さんである藤原ていさんの『流れる星は生きている』は、満州からの引き上げの話で、涙、涙、、、の物語。涙と笑いと。是非、今の若い人にも読んでもらいたい。藤原さんの明るい性質は、お父さんからもお母さんからも引き継がれたものなのだろう。お父さんは、もともとは気象学者であり、サイエンティストの血は、お父さんから、かな。

megureca.hatenablog.com

 

目次
1 ハワイ 私の第一歩
2 ラスヴェガス I can’t believe it.
3 ミシガンのキャンパス
4 太陽のない季節
5 フロリダ 新生
6 ロッキー山脈の麓へ
7 ストラトフォード・パーク・アパートメント
8 コロラドの学者たち
9 世紀あふるる学生群像
10 アメリカ、そして私


感想。
花丸!!!面白い!!!星5つ!!!!
研究者としてアメリカに渡った藤原さん。学問の目的地に着く前に、ラスヴェガスですっからかんに成っちゃった話や、他のアメリカ人、教授たちとの交流、最初は自分の心が意固地になっていたことなど、等身大のご自身を、ユーモアと美的センスで流れる文章にされている。いやぁ、ほんとに、藤原さんは文章がうまい!と思う。

数学者、哲学者、物理学者、、、、自分が感じた感動を言葉にするのがうまいんだなぁ・・・。「無心」に表現するからだろうか。こねくり回したような文章ではなく、シンプルでいて、心にしみいる・・・。
好きだ。この本。

 

サイエンティストとして、アメリカで挑戦してみたい気持ちと、日本人であることや英語が出来ないことで気後れしてしまう自分へのいら立ち。なにくそ!と思う心が、自分で壁をつくってしまい、自分でデフレスパイラルに落ち込んでいく。でも、藤原さんのすごいのは、メンタルのどん底の時、どこかおかしいと思って病院にいってみてもらい、体は健康そのものであると聞いて、だったら大丈夫だ!と開き直るところ。おそらく、ウツ症状だったのだろう。孤軍奮闘するストレス、自分だけが一人ぼっちで、周りばかりが恵まれているように感じてしまうメンタルのデフレスパイラル。わかるなぁ。私が単身で海外に行ったときは、周りに他の日本人もいたから、なんだかんだ孤独ではなかった。でも、ふとした時にも日本語でおしゃべりできる相手がいなかったら、、、それは、ストレスがたまるだろう。今のようにメールやSNSでチャットするなんてことも気軽にできなかった時代。単身で過ごすアメリカの冬は、身も心も寒くなる、、、わかる気がする。

 

内容を少し覚書。

 

藤原さんは、1972年の夏、20代最後にアメリカのミシガン大学に研究員として招待される。1971年9月に開催された数論日米セミナーで藤原さんの「代数方程式におけるハッセ原理」の講演をきいたミシガン大学ルイス教授が招聘してくれたのだった。

藤原さんは、ハワイ、ロサンジェルスコロラドを経由して、ミシガン大学に到着する。

 

ハワイでは、真珠湾一周の観光船にのり、気が付けば周りはアメリカ人ばかりで、自分一人が日本人。居心地の悪さは、いつのまにか急性愛国心をうみ、アメリカに対する劣等感が助長され、その後しばらく藤原さんを悩ませることとなる。

ハワイからアメリカ本土に向かう飛行機に乗り込む際、カバンにいれていた3本のバナナを「持ち出し禁止」ととがめられ、むりやりその場で3本を食べたくだりは、思わずぷっと吹いてしまった。

 

真珠湾でうまれた「アメリカ対私」という対抗意識をかかえたまま、藤原さんはラスヴェガスに辿りつく。自分はやらないと思っていたカジノに、、すっかりはまり、統計的に勝てないことはわかっていたはずなのに、、、これからの生活資金のほとんどを失う。アメリカについてから3週間、実家からの仕送りがとどくまでは、パンとバターと牛乳のみで暮らすこととなる。

 

ミシガンには8月中旬の蒸し暑い昼下がりに到着。町で一番の高層アパートの14階で生活を始める。慣れない英語での失敗エピソードがまた面白い。日本人が苦手な数字の聞き取りで、18と80のちがいというのがある。eighteenとeightyがわかりにくいのだ。ほかも、teenとtyは、私も苦手。中でも、eightは鬼門なのだ。
そして藤原さんは、4ドル80セントと言われたのに、4ドル50セントを渡して「Keep the change」(ツリはいらん)といい放った、、、と。笑える。でも、わかる。あるある。

他にも、勘違いした英語や、決まり文句がいくつか紹介されている。

 

I’m just picking on you. (冗談だよ)
It doesn’t matter. (どうでもいい)
I don’t care. (そんなこと知ったことか)
You’ve got to be kidding. (冗談でしょ)

などなど。


そして、わからない英語にであったら、なんでもノートに書き留めて、覚えたら出来るだけ使うようにした、と。かつ、発音するときには徹底的にアメリカ人の真似をした。
You’ve got to be kidding. なら、 ヨーガタビーキデイン。
そして、彼の英語はめきめきと上達していった。

 

キャンパスの話では、アメリカの大学におけるTenure(終身雇用保障)についてや、様々な教授について語られる。中には、「私がハーバードにいたころは、、、」と過去の栄光ばかり語る教授について、日本で「東大では、、、」と語るおじさんの様子と重なった、、と。笑える。
どこにでもいる、過去の栄光を語り続ける過去になってしまった人。。。

 

そして、藤原さんは、ミシガンでの生活をしてからしばらくの間は、語学の劣等感からアメリカに対する劣等感に繋がり、自分が攻撃的になっていたと振り返っている。他人の講演をきいても、くだらない、と心の中で思ったり、日々の暮らしの中での小さなことでもいちいち腹を立てている自分がいた、と。そして、自信回復のためには数学しかないのだ、とますます数学にのめり込んでいく。そして、自分がセミナーを開催するにあたって、内容はもちろんの事、英語原稿をつくり、暗記するまで練習した。初めての大舞台でのセミナーは大成功だった。自分を招聘してくれたルイス教授にも、大いに恩返しとすることができた。

最初の大きな成功にひたる藤原さん。そして、その1時間のセミナーによって、藤原さんは大きく変わる。藤原さんの目にうつるものは何もかもが美しく、そして、劣等感や攻撃性を少しずつ和らげていくこととなる。ただ、ますます数学の研究でしか自分はアメリカ人をみかえせない、、、という思いも大きくなっていく。

 

12月になる頃には、1年の滞在予定を延長したいと思うようになる。そして、せっかくならとミシガン大学以外の大学で助教授に応募してみる。一番行きたいのはコロラド大学だった。世界的に有名な数論の最高峰シュミット教授がいたから。
藤原さんはそのころシュミット教授が未解決としていた問題を数日のうちに解いてしまった。シュミット教授が見逃しているなんてありえない、自分が間違っているのか?何度検証しても、やはり、自分の論法があってそうだ。。。遠慮がちに、シュミット教授に自分の論法を説明する手紙を送ってみた。教授からは何の返事も来なかった・・・。

そして、そのころから藤原さんの不調が始まる。シュミット教授を怒らせてしまったのだろう、、と考えて落ち込んでしまったのだ。そこからは、デプレッションデフレスパイラル、、。

ミシガンの街はすっかり冬で、1月になると雪模様。。天候も藤原さんの精神状態に影響したのだろう。日本を出て5か月、急にホームシックに陥り、ノイローゼ気味にもなっていく。夏から秋にかけて頑張りすぎたために、疲労もどっとでてきたのだろう。日本語で語り合える友人もいない。。。孤独と疲労と、、、。

そして、ふとアメリカに来てからこのかた「優しさ」にふれていないのだ、、、と思うようになる。アメリカにも日本と同じように美しいものはある。でも、「アメリカには涙がない」と思うようになる。グランドキャニオン、湖の水面、、、美しいけれど涙がない、、、のだ、と。

このあたりの日本の情景を表現するくだりは、詩人のように美しい。

 

2月になると、両親からの手紙が届く。父親の

「紅梅の 色にじませて 春の雪」

という俳句に、郷愁の心を呼び起こされる。

そして、2月中旬、なんと、シュミット教授からの手紙が届く。しばらくインドにいたので、返事が遅くなったことをあやまりつつ、「あなたの証明はただしい、重要な指摘をありがとう」と。

 

藤原さんは、コロラド大学の助教授の応募書類を送る。気持ちは取り戻したかのようだったけれど、やはり体調がすぐれず、藤原さんは自分が精神的なことだけでなく重大な病魔に侵されているに違いない、と思いはじめ、意を決して大学病院へいく。検査をうけ、結果まで1週間。死刑宣告をまつかのような日々を過ごす。そして、医者に言われる。

「異常は何もない。まったく正常。私より健康だ。」
そして、医者は研究の事なんて忘れて、フロリダでもいって女の子と遊べばいい、とアドバイスした。

病院からの帰り、藤原さんはすっかり元気を取り戻していた。そして、「太陽、太陽、太陽が必要だ!」と心の中でつぶやき続けた。

そして、藤原さんは休暇にフロリダを目指す。そこで知り合った女の子と仲良くなり楽しい時間を過ごす。そうしている間に、コロラド大学での仕事が得られるかもしれないという連絡が入る。そして、フロリダを後にする。途中、立ち寄ったウエストパームビーチで、一人の少女と出会う。海を見つめる少女。多分。10歳くらいの小さな女の子だった。

海を見つめて隣同士に座って、しばらくおしゃべりをした。
藤原さんが、「海の向こうに何があるか知ってるかい?」と聞くと、少女はしばらく考えて、
「horizon(水平線)」

と答えた。

そうだ、海の向こうはイギリスでもスペインでも、ヨーロッパ大陸でもなく、水平線なんだ。人間の知識や常識ではなく、大海原にあるのは、水平線なんだ。。。

藤原さんは、この少女との会話で、自分がどこかに置き忘れてしまった純粋な感性、澄んだ魂を呼び起こした。自分がどうしてこんなに感動するのかもわからないままに、涙が流れた・・。そして、苦しかったミシガンの冬が一気に思い起こされ、感情の奔流に戸惑いながらも、自分の中に「愛」がよみがえってくるのをふつふつを感じた

アメリカにも涙はあった。歴史の古い涙はなくても、新しい涙があるのだということに気が付き、藤原さんの魂は再生されていく。

ミシガンに戻ってほどなくコロラド大学から採用の正式通知が届く。 

 

そして、コロラド大学で週に6時間の授業を担当しながら、アメリカの生活が続く。近所の子供達、学生、教授陣、さまざまな人たちとの交流の中で、藤原さんは「優しさ」を取り戻しつつ、数学者としてのキャリアを進めていく。

 

アメリカの大学の仕組みの話、教育機関と研究機関としての価値とのはざまでの教授陣の対立。ただのエッセイにとどまらない、様々な視点が提供されていて、実に面白い一冊だった。

 

思わず、手元に置いておきたいと思い、一冊ポチった。

 

何かを目指して環境を変えた時、視野狭窄になることがある。そんな時に、この本は”顔をあげて周りをよく見てみろ!”って言ってくれる気がした。そして、等身大の自分を忘れるな、と。

 

若き数学者に大いなる前途あれ!!って叫びたくなる一冊。

元気をくれる一冊。

おすすめの一冊。

 

読書は、楽しい!!!