海外で日本人であること

海外で日本人であること

 

藤原さんの『若き数学者のアメリカ』の中で、アメリカという国、アメリカ人、そしてそこで日本人としてどう生きるべきなのか、というようなことが語られている。

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海外で日本人であることって、どういうことなのだろう。。。以前、海外に行った日本人家族が、日本語教育にどう向き合うかということが仲間との会話で話題になったことがある。日本人とは? 日本人らしさは日本語と関係があるのか? 海外にいる時、何をもって私たちは日本人なのだろう。。。

もちろん、日本のパスポートを持っている、、という客観的な定義はあるかもしれないけれど、自分自身の主体としてはなにが、日本人なんだろうな、、、って。

 

私はタイに赴任していたことがある。ヨーロッパ、アジア、南北アメリカ、様々な国の人とも仕事をしてきた。アジアで仕事をすることと、欧米で仕事をすることは、日本人にとっては大きく環境が異なる。偏見、思い込みによるものがあるかもしれないけれど、やはり、違うものは違うのだ・・。日本人は、、、私は、色付き人種なのだ。。。。肌の色の近い人のいるアジアにいる時と、白い肌と青い眼の人たちといる時と、本能的に類似性が高い集団の中にいる時の方が、心のバリアは下がる。良し悪しではなく、これは心理的事実だと思う。日本人であることを意識するのは、日本にいる時より、海外にいる時だ。。

 

アメリカのアカデミアで過ごした藤原さんの「日本人であること」の一つの見方が興味深い。アメリカという国の歴史的、民族的特徴を背景に、アメリカ的であるというのは、そのまま日本人的であれ、ということなのだ、と。

 

藤原さんは、20世紀のアメリカ人は「故郷がない」と言っている。彼らはヨーロッパ、アジア、アフリカ、、、どこの国からの人たちであれ、一度は故郷を捨てた人たちの子孫である。そういう人たちがアメリカをアメリカたらしめているのは、一致団結の結束力というよりは、国土そのものではないか、と。

 

”気の遠くなるほど広大な国土、肥沃な大地、豊富な天然資源、これらがアメリカに限りない富を与えている。”

 

開拓者精神で、土地を切り開き、それぞれの集団が自分たちの生活を作り、経済大国となっていく。繫栄が永遠に続き、世界の大国であり続けると思えたアメリカだが、ベトナム戦争の敗戦で、自身も目標も失ったかのように、アメリカ人は彷徨う。

 

21世紀ならアフガニスタンからの撤退も、彷徨うアメリカ人をつくっているかもしれない。

 

多種多様な民族が集まっているのがアメリカであり、彷徨っていても、やはりアメリカ人なのだ。地理的、歴史的、民族的な画一性がほとんどない人たちが集まっているのがアメリカなのだ。

そして、そんな国において、日本人がどう生きていくべきなのか。

 

藤原さんは、
アメリカに滞在する日本人で、自分の日本性を除去することにより、アメリカに溶けこもうとする、あるいは溶け込んだつもりの者がかなりいるが、はたから見ると、大いに滑稽である。そうすることにより、表面的には融合して見えるが、真の意味で溶け込んでいるとはとても思えない。なるほど、彼らは一見アメリカ的である。握手も堂々と上手にできるし、レディーファーストも自然に身につけている。英語もうまいし、軽妙なユーモア、身のこなしや服装、態度も日本人的ではなくアメリカ人に似ている。しかし、私にはそういった人々が真にアメリカ的だとは思えない。彼らは単に意味のない平均値に近いというだけのいわば、「日本的でない日本人」に過ぎない。アメリカ人にはなり切れず、日本性を失っただけの国籍喪失人間としか思えないのだ。”
と。

そして、
アメリカに融和するには、日本性を維持したまま、ただ気持ちを開いて彼らに接するのが近道である。気持ちを開くというのは易しいことではないが、それさえできればすでにアメリカ人と違いはない。心からの礼を述べる時は、口先でサンキューというよりは、誠意を込めて深々と頭を下げたほうがはるかに効果的だ。
と。

そうだな、と強く共感した。

日本人であることとか、日本性をどうしたいと考えるかは人それぞれだと思うけれど、少なくとも日本で育った日本人が日本性をうしなうというのは、藤原さんの言うように「国籍喪失人間」かもしれない。 

 

そして、日本人であること、日本人として真美善とおもうこところに、自分の軸をおいておけばいいのだろう、と思った。

 

藤原さん自身、オーケストラの中の琴だったと、自分を比喩している。仲間に入れてもらいたいと思いながら、ヴァイオリンをライバルとみなしたり、それを叩きつぶそうとしたこともあった。でも、ヴァイオリンのすばらしさを見出すようになると、それをまねる琴になろうとしたときもあった。琴ではなくヴァイオリンを目指してしまっていたのかもしれない。そして、そこでは音を奏でることはできるが、深い部分での共鳴はしていなかったのではないか、、、、と。

 

琴は、琴なのだ。

日本人は、日本人なのだ。

そのままで、その良さがある。

 

アメリカ人を真似するのではなく、日本人は日本人でいいのだ。

プレゼントをもらったらにっこり微笑んで、静かに喜びを抱きしめればいいのだ。。。アメリカ人のように喜びを爆発させてみせることはないのだ。。。もちろん、心からそうしたければ、そうすればいい。

 

そうだよな。

って、素直に、ほんと、そう思う。

 

日本人は日本人でいいし、

あなたはあなたでいいし、

私は私でいい。

 

何事も、最初は真似事から始まる。習うというのは真似るなのだ。そして、続けているうちに、自分のうちからにじみ出てしまう自分らしさに気づき、それを大事にすることの価値に気がつくようになる。

 

最初はものまねでいい。

でも、自分の中の本物に気づく日が来る。

それが、成長するということかもしれない。

 

自分の中の真美善を大切にしよう。

 

と、そんなことを思った。

 

それは、

自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。

ということ。