『ウズベキスタンの桜』 by  中山恭子

ウズベキスタンの桜
中山恭子
KTC中央出版
2005年11月16日 初版 第1刷 発行 
2005年12月16日 初版 第2刷 発行

 

 ウズベキスタンに旅行するという話を友人にしたら、この本を貸してくれた。友人と銀座で食事をして、本を借りたその帰りの電車から読み始め、翌日には読了。
面白かった。一気読み。

 

中山 恭子さんは 1940年生まれ。
1963年3月 東京大学文学部仏文学科卒業。1966年4月 大蔵省元財務省入賞。1993年9月 国際交流基金常務理事、1999年7月 ウズベキスタン共和国特命全権大使タジキスタン共和国特命全権大使、2002年9月から2004年9月内閣官房参与。2004年4月香川大学大学院客員教授。2005年4月早稲田大学大学院客員教授
2008年国務大臣少子化対策男女共同参画、公文書管理、拉致問題担当)。

 

本を貸してくれた友人は、女性官僚。1999年に全権大使と言うのだから、女性の道を切り開いた1人の偉大なる先輩なのだろう。ウズベキスタンに住む友人も、この本を読んだことがあると言っていた。官僚女性の必読書か。心温まるエッセイのような感じ。

 

本の帯には、たくさんの文字が並ぶ。
”「明日までに日本政府が直接交渉に応じないなら1人ずつ打ち殺していく」
「1%でも救える可能性があるなら、できる事は全てやるべきだ」
キルギスの日本人拉致事件で人質救出に命がけで取り組んだ中山恭子大使と館員たちの64日間。元内閣官房参与中山恭子氏の3年間のウズベキスタン滞在記

”二次世界大戦後、極東から遠くウズベキスタンに強制移送され、重労働に服した2万5000人の日本兵がいた。運河を掘り水力発電所や学校道路を建設し、大地震にも耐えたナヴォイ劇場を立てた。
 望郷の念むなしく、異国の地に眠る800余名の若者達。その令令を慰めようと荒れ果てた墓地を整備し、桜を植えるプロジェクトが進められた。
 日本から送られた27種、1300本の桜が13カ所の墓地とタシケント中央公園等に植えられた。満開の桜の下で、日本とウズベキスタンの友好の花見の宴が開かれるのも間近いことだろう。”

 

友人から借りた本は、中表紙に中川さんのサインがあった。毛筆の細く柔らかなサインだった。文字は人柄を表すのか。優しい文字だ。

目次
第1章 着任 ウズベキスタン大使として
第2章 命を守るために 日本人拉致事件
第3章 ウズベキスタンの暮し
第4章 ウズベキスタンの経済
第5章 日本との交流、
第6章 ウズベキスタンの桜
第7章 未来を見据えて テロと隣り合わせで生きる人々
あとがき

ページをめくると最初に、日本を1番東とし、イランのあたりまでを含む地図が掲載されている。多分この地図を見ないとウズベキスタンがどこにあるのかわからない人もいるのではないだろうか。北にカザフスタン、南にトルクメニスタン、さらに南に行けばいらんアフガニスタンがある中央アジアの国だ。

ブハラの美しい写真と共に、中山さんの言葉が並ぶ。
タシケントサマルカンド、ブハラ、ヒワ。。。。
何と言う懐かしい響きでしょう。
シルクロードの街々。
遥か彼方に、でも何故か時空を超えて
とても身近に存在する世界。
ウズベキスタンを訪ねたら、
日本人であればどなたでも、
まるで古き良き時代の日本に来たかと、
ほっとした気持ちになることでしょう”
とある。。

おぉ、これは、旅への期待が膨らむ。

 

中山さんは、1999年8月にウズベキスタン共和国の首都タシケントへ飛ぶ。8月8日現地時間午後4時に到着。日本との時差は4時間。ウズベキスタンの人々の顔つきは日本人とよく似ているのだそうだ。ウズベキスタンは、人種のるつぼ。「スタン」とは、「国や地域」を意味する言葉で、ウズベキスタンは、「ウズベクの人の国」と言う意味。実際には120を超える民族が住んでいるのだそうだ。まさに人種のるつぼ。みんながそれぞれ自分自身の民族はっきり意識していながら、一方で、何か共通したものを持っていて、渾然とした統一感のようなものを感じられると言う。それはシルクロードの長い歴史の中で培われた統一感なのかもしれない、と。

当時の大使館は、日本人11人、現地採用16人。女性大使ははじめての事だったとのこと。

中山さんが着任した当時、ウズベキスタンの大統領は、カリモフ大統領。1991年、ソビエトの崩壊とともに、ウズベキスタン共和国の独立をはたす。カリモフ大統領は、日本のODAを高く評価し、日本が中央アジアに関心を持ち、ウズベキスタンを理解してほしいと心から願っている人だった。

 

 8月12日にカリモク大統領に挨拶したと思ったら、すぐ8月23日キリギリスでJICA(国際協力機構)が派遣していた日本人鉱山技師4人とキルギス人の通訳、キルギス軍関係者の2人の合計7人が反政府ゲリラになされたとの連絡が入ってきた。

キルギスにおける日本人拉致事件発生。
着任して、すぐに起きたのがこの大事件だった。。
最終的には全員が無事に解放されるのだが、それまでの64日間、日本の本省との方針の違い、中央アジアに対する日本側の理解の足りなさと闘いつつ、中山さんは大使館のメンバーとともに尽力する。ウズベキスタンタジキスタン両方からの協力が得られ、結果的には無事に解放につながる。ハラハラドキドキの展開。中山さんは、どうしたらいいかの決断に迷ったとき、悩んだ時、日本から持ってきたイリジウム電話で夫に連絡したのだそうだ。同じく官僚の夫は、電話で「外務本省がなんと言おうと、日本人の命を守ることが第一だ。それが大使の役目だろう」と言ってくれたそうだ。日本に理解者がいてくれる事は誠に心強いことだった、と。

いやぁ、、、すごいお仕事だ・・・。

 

そして無事に事件が解決した後、ウズベキスタンタジキスタン両方の大使館にお礼に行くと、当たり前のことをしたまでと答えるだけで、本当に感謝の念に堪えなかった、と。損得勘定などではなく、心から協力してくれた両国。この話をきいただけで、中央アジアの国は、素敵だ、と思ってしまう・・・。

 

中山さん曰く、”これらの国の人々は、品格があり、経済的には、まだ発展開発途上であっても、自分たちの民族に誇りを持っている。文化水準は高く、しかも他の文化を尊重し、受け入れる余裕がある。日本が失いつつある、貴重なものが中央アジアの国には存在しています”と。

ほかには、ウズベキスタンの暮らしの話のなかでは、伝統工芸のシルク、アトラス織が紹介されている。アトラス織は、王様が布職人たちに、この地の美しい娘たちにふさわしい美しい布を織るようにと命じたことでできた美しい織物だそうだ。

ウズベキスタンの経済については、ソ連時代に綿花と金の生産に特化していた影響から、モノインダストリーであり、脆弱性があった。このモノインダストリーからの脱却を図るため、第二次産業第三次産業へ高度化していく取り組みがなされているとのこと。


農業セクターでは、綿花の栽培の歴史は非常に古い。ただ綿花の生産はとても重要な産業ではあるが、ウズベキスタンの経済近代化の中で様々な問題も抱えている。大規模農場の経営は旧態然以前たるもので、いわゆるノルマの世界が支配する。国が綿を買い上げる価格と輸出価格の差額は国庫に入る主要な歳入となっており、作付計画から綿花の国家買取終了や価格まで国家が管理してる。

 

アラル海に関しては、ソ連時代にアムダリア、シルダリアの川の流域において世界三大灌漑事業の1つと言われる大規模な灌漑事業が行われた。それによって、アラル海への水の流入量が減少減少し、湖の面積は大きく減ってしまったそうだ。

今回、アラル海へも行く予定なので、自分の目でみてみたい。

 

政治・宗教については、他にもテロの話が紹介されている。
1999年2月16日、ウズベキスタン首都タシケントイスラム原理主義グループによる同時多発テロが発生。これはアメリカを襲った同時多発テロ2001年9月11日の2年半ほど前の出来事だった。当時、ウズベキスタンの人々は自動車ごと自爆すると言う想像超える同時多発テロに大きな衝撃を受け、そこ知れぬ恐怖を感じたと生々しく語っていたと言う。この犯人たちは、アフガニスタンから入り込んできたプロのテロリストだった。タシケント同時多発テロに加入した犯人グループのテロリストたちの名前や顔は一般にも公開され、その中にはオサマ・ビンラデンを含む、アメリカの同時多発テロに関与した人々も含まれていた。

不穏な空気はわかっていながら、防げなかったアメリカの同時多発テロ。。。残念だ。

あとは、それぞれの街の紹介がある。


サマルカンド
シルクロードの十字路に位置するオアシス都市として発展したサマルカンド。その歴史は紀元前5、6世紀ごろから始まる。この街を築いたのは、イラン系ソグド人シルクロードの商人として活躍した。彼らのもたらす富によってサマルカンドが大いに繁栄した。しかし1220年、チンギスハン率いるモンゴル軍の来襲によって街は徹底的に破壊された。その荒れ果てた土地は、その後「アフラシアブの丘」と呼ばれるようになり、現在、発掘が進められている。現在のサマルカンドは14世紀、英雄アムール・チムールによって建設されたものである。チンギス・ハーンが破壊し、チムールが建設したと言われるのはそのためである。

 

ブハラ
パミール高原から流れるザラフシャンの流域にあるオアシス都市で古くからシルクロードの要所として栄えてきた。8世紀にアラビア人によって征服され、一気にイスラム化が進むが、それ以前はゾロアスター教や仏教、キリスト教などが信仰されていた。それらの宗教の名残をとどめる遺跡がいくつも見つかっている。


ヒワ
ヒワが属するホレズム州は、アムダリアの下流域に位置し、北東をキジルクム砂漠、南西をカラクム砂漠に挟まれた乾燥地帯である。太陽を意味する「ホレズム」の名が示す通り、太陽の照っている日が1年のうち300日もあり、年間雨量は86ミリでウズベキスタンで1番水の少ない地域である。


タシケント
ウズベキスタンの首都。この街は、古来オアシスの都市国家として栄えシルクロードの要衝であったが、今ではその歴史を感じさせるものは少ない。タシケントは1865年に帝政ロシアに征服されて以来、街は移住してきたロシア人たちによってすっかりロシア風に作り替えられた。その後、ソ連時代は、旧ソ連中央アジア行政の中心地となり、政治経済を発展させた。さらに1966年の大地震で壊滅状態になった。この街は、旧ソ連からの協力な支援の下で見事に復興を遂げ、再建された。街は、さらにいっそうソ連風となった。タシケントトルコ語で「石の街」の意味である。帝政ロシアに征服される以前、この街は、いくつかのトルコ系イスラム王朝の支配を受けた。街の名前はその名残と言える。日本人になじみが深いところでナヴォイ劇場がある。1400の客席数を持つ。この劇場の建物が完成したのは、1947年。第二次世界大戦後にシベリアから強制送還強制移送された数多くの日本兵がその建設に大いに貢献した。この時の日本人の働きは、現在でも称えられ、この建物は日本とウズベキスタンの有効のシンボルとなっている。

 

さて、ウズベキスタン、楽しんでくるぞー!