『マンガ日本の歴史 5 随・唐帝国と大化の改新』 by  石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 5
随・唐帝国大化の改新
石ノ森章太郎
中央公論社(中公文庫)
1997年4月3日 初版印刷
1997年4月18日 初版発行

 

『マンガ日本の歴史 4 王統譜を編み上げる大和王権』の続き。

megureca.hatenablog.com

4では、仏教が伝来し、蘇我氏物部氏で仏教の受容をめぐって争いが起こり、王権をめぐってもごたごたしていた時代。5では、その後の推古天皇聖徳太子、そして大化の改新がおこる。

 

目次
序章 女帝誕生
第一章 聖徳太子の改革
第二章 蘇我氏の専横 
第三章 大化の改新
第四章 皇極天皇重祚

 

ポイントを覚書。

 

日本初の女帝、つまり推古天皇が誕生したのは、蘇我馬子に頼まれたから。推古天皇は、炊屋姫(かしきやひめ)といって、欽明天皇(29代)蘇我稲目の娘の間にうまれたこども。敏達(びだつ)天皇(30代)の妃となっていた。

 

用明天皇(31代)が亡くなった後、蘇我の馬子は、王位継承を表明した穴穂部皇子とそれを支援した物部守屋を倒し、穴穂部皇子と弟である泊瀬部(はつせべ)皇子を推す。
崇峻(すしゅん)天皇(32代)となった泊瀬部皇子だったが、蘇我馬子の傀儡でしかなく、最後はなんだかんだといちゃもんをつけられ、やはり馬子に殺されてしまう。

 

つまりは、馬子が権力を握るためにじゃまになれば天皇まで殺し、炊屋姫をとりこんで、うまいこと自分の権力をたかめようとした。

炊屋姫は、馬子に言われて天皇になることは承知したけれど、「厩戸皇子に政務をまかせる」という条件付きだった。摂政の聖徳太子誕生。592年、日本初の女帝、推古天皇の誕生(33代)。39歳。そのとき聖徳太子は19歳。

 

この後も、血なまぐさい興亡は続くのだが、とりあえず、聖徳太子の登場により、律令国への歴史が始まる。

 

聖徳太子がやったこと
・大陸で力を強めた隋と外交すること。(朝献ではなく、対等な付き合いをめざした)
四天王寺建設(摂津)
・大陸での権力抗争が激化し、大和政権として、新羅支配と任那(みまな)回復を断念。任那は、朝鮮に侵攻するための軍事拠点とする計画だった。→国内の政情安定に専念。
法隆寺斑鳩寺)建設。父帝の菩提を弔うため。
・603年、冠位十二階制定。身分の明確化。徳、仁、礼、信、義、智の順にそれぞれ大小をつけた。それぞれの冠の色を、紫、青、赤、黄、白、黒とした。
・604年 十七条憲法制定。祭祀的論理を否定し、礼の秩序を提示
 第一条 和を以って貴しと為す。忤(さか)らうこと無きを宗と為せ。
 第二条 篤く三宝を敬え。三宝とは、仏、法、僧なり。
 第三条 詔を承けては必ず謹しめ。
・607年 第二次遣隋使小野妹子派遣。”日出処の天子・・・・・”。
・『天皇記』、『国記』編纂。

 

622年 聖徳太子、亡くなる。(本書では死因は言及なし。病没とか殺されたとか諸説あり)
626年 蘇我馬子、亡くなる。→ 飛鳥の石舞台は、馬子のお墓と伝えられている。子の蝦夷が大臣の地位を継ぐ。
628年 推古天皇、亡くなる。75歳。

 

643年 蘇我入鹿が、山背大兄王(やましろのおおえ、聖徳太子の子)を襲う。山背大兄王は、蘇我の手から逃れて法隆寺へ入るが、これ以上の戦いを望まず、妃や子女ら十数人と自殺してしまう。聖徳太子の血は、途絶える・・・。

蘇我氏の暴挙はとどまるところを知らない・・・。

大陸では、隋に代わって唐(隋の反乱軍指導者・李淵が建国)が権力をふるう。

 

蘇我の横暴を見かねていた中臣鎌足(藤原鎌足)は、中大兄(なかのおおえ)皇子(皇極天皇(35代)と舒明天皇(34代)の子)に近づき、蘇我蝦夷・入鹿を討ちたそう!と提案。そして、蘇我氏の血を絶つべく、中大兄皇子は、異母兄弟にあたる兄の古人大兄皇子(舒明天皇(34代)の子)と蘇我氏を討つ。645年、大化の改新

 

645年「改新の詔」宣布

改新の詔では、従来の庶民生活に残る習慣・風習を“愚俗”とみなして、改めさせた。庶民は、戸惑った。でも、それは、中国に対抗できる国を作るためだった。

孝徳天皇(36代)が亡くなると、655年、皇極天皇中大兄皇子の母)が、斉明天皇(37代)として重祚した。つまり、皇極天皇斉明天皇は同一人物の女帝。

 

大化の改新で国力を付けた大和朝廷は、軍船180艘を東北地方にだして、蟠踞する蝦夷をおさめようとするが、争うことなく、蝦夷を制圧した。大和朝廷の軍事態勢は整えられていく。

そのころ大陸では、唐と新羅が連合して百済を潰した。このまま唐と新羅の勢いがますと、日本もやばい!そこで、斉明天皇百済救援軍をおくる。しかしそれは、、、、

 

と、ここまでが五巻。

 

時代は、蘇我氏物部氏の攻防。そして、やりたい放題だった蘇我氏の興亡。中大兄皇子の母である皇極天皇が、大化の改新のなかで、再び即位して斉明天皇となったこと。その背景には、国内政情だけではなく、大陸での大きな流れがあったということ。

 

まぁ、いつの時代も、跡取り問題で血が流れる。。今から思えば、人類とは野蛮な歴史の中にある、、、。 

いや、、、いまでも野蛮か、、、。