『マンガ日本の歴史 6 律令国家の建設とあらがう神祇』 by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 6
律令国家の建設とあらがう神祇
石ノ森章太郎
中央公論社
1990年4月5日 初版印刷
1990年4月20日 初版発行

 

日本史のお勉強。

『マンガ日本の歴史 5 随・唐帝国大化の改新』の続き。

megureca.hatenablog.com

 

目次
序章 白村江の戦い
第一章 天智天皇の急進改革
第二章 壬申の大乱
第三章 律令国家への道
第四章 奈良時代始る

 

5では、斉明天皇百済救援軍を送ったけれど、、、、どうなることか!!っていうシーンでおわっていた。それこそ、日本が歴史上、はじめて海外に大敗北を喫した白村江の戦い

 

大和朝廷は、阿倍比羅夫(あべのひらふ)・安曇野比羅夫(あずみのひらふ)を将として、百済の王・余豊璋(よほうしょう)に援軍を送る。派遣軍の本営は、北九州・長津宮。援軍を送ったのは、中大兄皇子中臣鎌足大海人皇子ら。しかし、唐と新羅の圧倒的な軍力に、大敗。

663年 白村江の戦い、敗北。

 

白村江の戦いの間は、母・斉明天皇が歿したあとも即位しなかった中大兄皇子だったが、国内安定と唐・新羅からの勢力に対抗するために、即位を決意。

667年 天智天皇即位。 近江・大津に遷都

 

大海人皇子天智天皇の弟)は、天智天皇が自分ではなく、息子の大友皇子皇位継承を考えていることをさとり、自らは出家して吉野に引っ込む。

671年 天智天皇、歿する。

 

天智天皇は、大友皇子皇位継承者として指名した。

しかし、天智天皇中臣鎌足とともに実施してきた様々な国内改革が貴族・豪族の不満を呼び、かれらが大海人皇子に王権奪取をもとめる。その声に答えた大海人皇子は、吉野をたって、大津へ攻め込む。古代最大の内乱勃発

 

672年 壬申の乱 (大友皇子天智天皇の子)vs 大海人皇子天智天皇の弟)
壬申の乱は、大海人皇子の勝利。大友皇子は自殺

 

壬申の乱で、大海人皇子が大津に攻め上った経路が地図になっていた。滋賀、大津は都だった時代があったのだ。。

 

673年 天武天皇大海人皇子)即位。 飛鳥浄御原宮。讃良妃は皇后となる。
* 讃良妃は、天智天皇の娘。

天武天皇も、天智天皇に続いて、国内の改革をおしすすめ、律令国家の体制をかためていく。

683年、天武天皇が歿すると、讃良皇后が、称政(即位せずに政)する。

天武天皇には、壬申の乱で活躍した高市皇子をはじめ数人の皇子がいたが、讃良皇后は、自分の息子である軽皇子を溺愛。

690年 讃良皇后は、持統天皇として即位。 藤原宮に遷都。

697年 軽皇子文武天皇として即位。若かったので、持統天皇軽皇子のおかーちゃん)が、息子を支える。

このころ、大嘗祭や新年祭りなど神祇祭祀が国家統一行事として管理されるようになる。

*神祇(じんぎ):天つ神と国つ神。かみがみ。

 

707年 文武天皇、歿する。元明天皇即位。
藤原京では、和同開珎など、銭がつかわれるようになる。

 

710年頃、天武天皇が構想していた『古事記太安万侶(おおのやすまろ)によって編纂完成。古事記は、推古天皇の時代の帝紀』と『旧辞(くじ)』に書かれた神話などの間をうめて、天皇家万世一系であり、その立場を確固不動にするためにつくられた。
旧辞』は主に、高天原神話、『帝紀』は主に崇神天皇以降の話だったので、古事記では神武天皇崇神天皇までの時代を埋めている。だから、、、、天皇の数と時間軸が非現実的なものになっている。。。

 

710年の平城京建設・遷都には、膨大の人々が駆り出されたが、その人々は後に流民化してしまう。貧困にあえぐ流民の人が救いを求めたのは、仏教の民衆布教をしていた行基のような僧だった。

 

律令制度が固められていく一方で、庶民の貧困は進み、律令国家としてはまだまだおぼつかいない。そこで、編纂されたのが日本書紀。『古事記』の完成から8年で『日本書紀』がつくられ、天皇が民衆を率いて自然を支配することを正当化した。自然制圧を肯定。そして、723年「三世一身法」を発布。耕した土地を占有していい、、、という法につながる。

こうして、国土の土台ともいえる「生産力」を高めることにも目を注ぎ始めた。

 

と、6巻はここまで。

 

参考のおまけ。

・時代解説  義江彰夫
 白村江の戦いでの大敗は、朝廷の国際的危機であるとともに、大化の改新以降の改革の梃(つえ)として最大限に利用された。
 壬申の乱のあと天武天皇は、豪族と民衆の支持を回復することにも意を注いだ。
 『古事記』のあとわずか8年で『日本書紀』が書かれたのは、神話の比重をかるくして、渡来人・帰化人も納得するような中国型史書を必要としたから。古代王権が内外に支配の正統性を得ようとする必死の努力の産物が、『日本書紀』。

 

・服装の歴史 高田倭男
 官位の制で序列がかわっていくなか、唐王朝の文物導入に意を注いでいた日本は、唐においてイラン様式の服装が流行していたので、それを断片的に採用し始める。『日本書紀』「続日本書紀』に、服装の記録あり。上下別、左前あわせ、帯、縁の飾り、儀式のときの太刀・鉾などなど・・・。

 

・家具とインテリアの歴史 小泉和子
 正倉院には、3基の厨子が存在する。「赤漆文欟木厨子」「柿厨子」「黒柿厨子」。厨子は、日常的につかわれる戸棚のようなものだが、なぜ「象徴」として大事にされていたのかはよくわかっていない。少なくとも木工技術として極めて高度なものだった。

 

・建築の歴史 藤井恵介
 藤原京は、奈良盆地につくられ、正方形の区画で分けられた。主要な施設は、天皇の宮殿と政治の中心である大極殿・朝堂院天皇の住居である内裏。上級貴族の屋敷もあった。藤原京の16年後、慌ただしく奈良盆地中央に平城京が作られる。その規模は、藤原京の東西方向に2倍。

 

律令国家を作っていくにも、周辺国からバカにされない歴史が必要だったり、豪族・貴族のご機嫌取りも必要だったってこと。そして、小国の集まりだった倭国は、日本国へと、、、。

 

古事記』の構成が、推古天皇の時代の『帝紀』と『旧辞』をもとに、時代の空白を埋め合わせしていたとは、知らなかった。今、小林秀雄の『本居宣長』と格闘しているのだが、宣長の『古事記伝』も読んだことが無く、町田康さんの『口訳古事記』で、ちょっぴり古事記の内容を分かったような気になっていたけれど、やっぱり、まだまだ、、、、。

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古典は奥が深い。。。深すぎる・・・。でも、古典を知らないと、歴史を知らないと、理解できないことがたくさんある。

 

まずは、マンガで歴史の復習を続けよう・・・・。