『マンガ日本の歴史7 大仏開眼から平安遷都へ 』 by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 7
大仏開眼から平安遷都へ
石ノ森章太郎
中央公論社
1990年5月5日初版印刷
1990年5月20日初版発行

 

『マンガ日本の歴史 6 律令国家の建設とあらがう神祇』の続き。

megureca.hatenablog.com

6では、平城京が開かれ、古事記』『日本書紀を編纂することで、天皇の地位を確実なものにしてきた道のり。そして、仏教の民衆布教がはじまったという社会まで。7では、とうとう奈良の大仏、着工へ。8世紀から9世紀の冒頭まで。

 

目次
序章 大仏開眼への道
第一章 激動の天平時代
第二章 女帝の悲劇
第三章 桓武新王朝・平安遷都へ

 

724年に聖武天皇(45代)が即位。聖武天皇は、平城京にじっとしていないで、光明皇后と一緒に各地を行幸していた。そして、ある時、智識寺の廬舎那仏をみて、立派な廬舎那仏が欲しい、、、と思う。それが、大仏建立へ。

 

741年、諸国に国分寺を建立せよとの詔

 

聖武天皇は、仏教を国教として政治の中心にすえ、独自の政治を展開しようとしていた。立派な大仏を作るために、お金も人も必要。そこで、これまで弾圧してきた行基を取り込んで、大仏つくりに協力させる。

 

743年 大仏建立の詔
752年 大仏完成 開眼供養会

 

東大寺に残る記録によると、大仏建立にかかった人は、
材木知識 51,590人、役夫 1,665,071人
金知識 372,075人 役夫 514,902人
約9年間とはいえ、とてつもない人が参加している。

大仏が完成したときには、行基は既に他界し、聖武天皇皇位を阿部内親王孝謙天皇光明皇后との間の娘)に譲っていた。

 

光明皇后は、藤原不比等の娘で、藤原の血をひく。元明天皇(43代)の時代から聖武天皇の時代に至るまで、実は、藤原家が関わる長屋王を自殺に追いやった事件などがあり、藤原家が徐々に勢力をつけていく。また、それを面白く思わない庶民も多かった。その不満が現れたのが「神火」と言われる屋敷の放火事件で、そのころ各地で多発した。

また、藤原広嗣は、聖武天皇が目をかけている遣唐使玄昉と玄昉と共に唐へいっていた吉備真備が朝廷に入り込むのが気に入らないと言って、追放の反乱を起こす。広嗣の反乱は、二か月で鎮圧されて藤原の勢力は弱まるかにみえたものの、藤原仲麻呂は、光明皇太后に取り入って、朝廷への影響力を増していく


ところが、仲麻呂は、光明皇太后が看病禅師の道鏡と昵懇にしていることが気に入らないので、二人の仲を裂こうと画策。それが、光明皇太后孝謙天皇(46代)の怒りをかって、仲麻呂は干されてしまう。

そして、道鏡が勢力を増すが、宇佐八幡宮の神託事件」称徳天皇(48代=孝謙天皇重祚)が道鏡法皇にしようとしたけれど、和気清麻呂が伝えた宇佐八幡宮の神託で全否定された事件)で、その立場はあやういものとなる。そして、称徳天皇が没すると道鏡は左遷される。

看病禅師が、天皇になる道は断たれた。

 

そして時代は、桓武天皇(50代)に。

 

平城京から長岡京長岡京から平安京と、立て続けに遷都が行われた。それは、桓武天皇が、それまでにあった「藤原種継(造長岡京使)暗殺事件」(桓武天皇の強力な国政領導に不満をもった大伴継人らの犯行)、それにまつわる「早良親王の冤罪による淡路島流罪事件」(親王は、配流される船の中で憤死)などで、早良親王の怨霊をおそれていたからだった。

 

794年 平安京遷都

 

桓武天皇は、天武朝の神話を否定し、天皇の地位と権威は、律令によって支えられている、とした。

 

天武天皇が一生懸命つくった『古事記』も『日本書紀』も、数十年のちの桓武天皇の時代に否定されているのだ。。。。それでも、いまでもその記録が残り、研究対象になっているって、、、やっぱり、日本人は神話がすきなのだろうか。

 

そして、桓武天皇は、蝦夷征討にも力をいれる。蝦夷を支配する阿弖流為(あてるい)服従させるのに20年近い年月をかけている。

 

780年 多賀城を襲撃
788年 桓武天皇5万余軍は阿弖流為に大敗
801年 坂上田村麻呂征夷大将軍とし、胆沢城を攻める。
ついに阿弖流為服従させる。

 

そして、7巻の最期は、最澄の登場。最澄桓武天皇へ「唐へ行きたい」と申し入れ、27年ぶりの遣唐となる。最澄(38歳)遣唐使石川道益と、空海(31歳)遣唐使葛野麻呂とともに、唐へわたる。

激動の天平から平安の都へ、、、、。大王の政から、律令機構による政治へと変わっていった。

 

おまけ
・時代概説 義江彰夫
720年頃~800年頃、奈良時代~平安の始まりにかけては、 外来と伝統が融合せずに共存していた。 官僚制的システムは、唐の律令法をまねて動かされていた。でも、現実には、 地方の民衆は依然として呪術と祭祀で結ばれた未開な共同体生活を営み続けていて、郡司などの地方豪族は、税金をとることを神への供犠と説明していた。
 行基などの布教で、民衆にも仏教が広がり始めた。人々は仏教の奇蹟の力を信じ、王権を乗り越える論理にもなりえたため、朝廷は行基の布教を弾圧しようとする。が、大仏建立のために、逆に、行基を利用するようになる。
 道鏡の事件の他にも、玄昉が聖武天皇に用いられるなど、僧侶が天皇と政治を動かすということも可能になっていく。しかし、行きついた先は、道鏡左遷。

 

・服装の歴史 高田倭男
養老令の中の衣服令で、朝廷公家階級それぞれの服装基準が規定された。

 

・家具とインテリアの歴史 小泉和子
正倉院の家具:「御床(ごしょう)」。聖武天皇が使用した寝台。足がついていて、まるで、現代のスノコベッドみたい。ベッドは、帳帳(とばりちょう)の中に置かれていた。

 

・建築の歴史 藤井恵介
平城京は、全体として長方形。中央の南北道路朱雀大路。西側が右京、東側が左京。必ずしも、唐の首都長安を真似ただけではなく、そこに都市を設計することも計画されていた。
 東大寺は、全国の国分寺の総国分寺。「造東大寺司」という役所が新設され、土木・建築実務、写経などすべての事業が推進された。造東大寺司のもつ技術力は高く、強大な組織力をもっていた。

 

みんなで力をあわせて何かを作るっていう事業の古代最大が、東大寺の大仏、だろうか。古墳もたくさんの人が動員されていたけれど、大仏作りは古墳よりずっと建築と材料に関する知識が必要だっただろう。本当の意味で大仏を作ったのは、そういう知識と技術を持っていた人のはず。行基はそれを統括した。どっちも必要なんだよね。けど、歴史に名を遺すのはジェネラリスト。。。。

 

次は、とうとう、空海の登場!!