『マンガ日本の歴史 9  延喜の治と菅原道真の怨霊』 by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 9 
延喜の治と菅原道真の怨霊
石ノ森章太郎
中央公論社
1990年7月5日初版印刷
1990年7月20日初版発行

 

『マンガ日本の歴史 8 密教にすがる神祇と怨霊の祟り』の続き。藤原北家が朝廷を牛耳っていく時代。

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目次
序章 菅原道真の登場
第一章 藤原氏・最後の他氏排斥
第二章 王朝国家の幕開き
第三章 延喜の治と道真の怨霊
付章 怨霊から天神へ

 

藤原良房から藤原基経(もとつね)に引き継がれた摂関政治は、891年に基経56歳で歿したことで、次の世代へ。

 

891年、まだ25歳の宇多天皇(59代)は、基経の子どもたちがまだ若かったことから、関白をおかず、菅原道真(47歳)蔵人頭に抜擢した。道真は、阿衡事件藤原基経宇多天皇の間で起こった政治紛争)を大胆な意見で妥協へ導いた一件依頼、宇多天皇に強く信頼されていた。関白をおかないということは、藤原北家の影響への対抗策でもあった。その時、基経の息子たちは、時平21歳、仲平17歳、忠平12歳

そして、道真はめきめきと頭角を現し、朝廷で活躍する。面白くないのは藤原の面々。道真は、急ピッチで昇進する。

 

897年、宇多天皇は、息子の敦仁皇太子(13歳)に譲位する。そして、道真を右大臣、時平を左大臣とした政治を開始するのだが、面白くないのは藤原一家。道真に協力したくないと、仕事を放棄することも、、、。そんな状況の中、宇多上皇は、仁和寺で落飾し、東大寺に受戒し、法皇となった。ようするに、あたまをまるめて政治の世界から身を引いた。

すると、道真に対する反発が表面化する。そして、道真は、身に覚えのない言いがかりで三善清行(みよしのきよゆき)から「辞職勧告」を送りつけられる。結局は、大宰府に左遷されてしまうのだ。驚いたのは宇多法皇。あわてて、朝廷にかけつけるが、帝の蔵人頭である藤原菅根にはばまれて、内裏にはいることすらできなかった。。。。

 

道真の一句。
こちふかば にほひをこせよ むめのはな あるじなしとて はるをわするな

 

そして、妻を残して大宰府にむかう船での一句。
きみがすむ やどのこずえを ゆくゆくと かくるるまでも かへりみしはや

 

この時、醍醐天皇はまだ17歳。藤原氏の策略なんてわからなかったのかもしれない。そして、道真追放により、時平の時代がやってくる。

時平は、妹の穏子(おんし)を醍醐天皇の女御として入内させ、保明親王の誕生により、外戚としての地位を確保する。

時平は、矢継ぎ早に国政改革の太政官符を発令。 公地公民・ 班田収授を骨子とした律令制を再建するものだった。地方新興勢力を抑えるために、延喜の荘園整理法で、荘園、班田への管理をつよめた。

 

また、このころ、古今和歌集』が紀貫之らによって選集され、『延喜式』が藤原国定、紀長谷雄(道真と仲良しだった)らによって編纂された。

 

903年2月25日、菅原道真大宰府で亡くなる。
907年には、唐が滅亡。そして、時平が39歳でなくなる。
醍醐天皇(25歳:60代)は、藤原忠平(30歳)を権中納言とした。

 

醍醐、忠平政権がまず当面したのは、疫病と天候不順による不作だった。

相次ぐ、天災。くわえて、幼い親王や藤原家要人の死がつづく。時平派の人々が次々と早世。ひとびとは、それは道真の怨霊によるものだと考えるようになる


930年6月26日、清涼殿に雷が落ちて火災発生。人々が焼け死ぬと、怨霊説はますます強固になる。また、清涼殿火災事件以来、醍醐天皇は体調をくずし、病に臥してしまう。8歳の寛明親王(=朱雀天皇:61代)に譲位すると、醍醐天皇はまもなく永眠。

931年には、宇多法皇も65歳でこの世を去った。

 

時代は、忠平の好き放題!

が、時代は、東では平将門が、西では純友が反乱をおこしていた時と重なる。道真怨霊説は、反乱の言い訳にも使われた。

 

道真の怨霊を鎮めるために、さまざまな処置が取られた。その中に、993年道真に正一位左大臣が追贈されたというものがあり、さらに、太政大臣とされた。大宰府はその後、さまざまな神としてあがめられてきたが、現在は、皆さんご存じ「学問の神様」となっている。

 

おまけ
・時代概説 王朝国家と天神信仰  義江彰夫
この時代は、律令国家としての軌道修正が必要となり、収取制度、地方行政の根幹にまで朝廷のてこいれがすすんだ。
また、9世紀後半は、天皇が人間界の頂点に立って、冥界(仏教界)や自然界との関係を継ぐ至浄・至高の存在という観念が再構築された時代だった。
道真怨霊説が広まった背景には、藤原家による王朝国家体制によって没落を余儀なくされた伝統的地方勢力のやり場のない鬱念が、密教僧らの働きかけによって広範に結びつけられていったこともある。

 

・服装の歴史 髙田倭男
平安時代も唐風が好まれ続けた。女子が着用する裳(も)は、ロングスカート状で丈が長く、胸高に着装下と思われるものもあった。

 

・家具とインテリアの歴史 小泉和子
大極殿の中心には、天皇用の玉座があったはず、、、だが、家具の場合、建築と違って痕跡がないために発掘調査からはまったくわからない、、、。

ただ、当時は日本式というよりは、もっと中国的だった可能性がある。

 

・建築の歴史 藤井恵介
平安遷都により、社会は大きく転換していった。長岡京からわずか10年で、平安京へ遷都が行われた。しかし、桓武天皇は、度重なる遷都で貴族も民衆も疲弊していたため、一旦、造営事業を中止する。

 

人間の私利私欲がうごめく政治、自然災害、、、、いつの時代も、変わらないな、、、。

 

太宰府天満宮の梅が枝餅が食べたくなった・・・。

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