『なぜ東大は男だらけなのか』 by  矢口祐人

なぜ東大は男だらけなのか
矢口祐人
集英社新書 
2024年2月21日 第1刷発行

 

とある有志の勉強会で、「寺子屋」活動に尽力されている方が紹介してくださった本。力作だ、とおっしゃっていた。なかなかインパクトのあるタイトル。内容は読まずともわかるような気もするけれど、、、図書館で借りて読んでみた。 

 

著者の矢口さんは、東京大学大学院総合文化研究科教授。 同大グローバル教育センター長、同大副学長。1966年、 北海道生まれ。米国ゴーシエン大学卒業。ウィリアム・ アンド・ メアリ大学 大学院で博士号取得。 1998年より 東京大学大学院で教える。 専攻はアメリカ 研究。

 

表紙裏には、
” 2023年 現在、 東大生の 男女比は8対2である。日本のジェンダー・ギャップ指数が世界最下位レベルであることはよく知られているが、将来的な社会のリーダーを輩出する高等教育機関がこのように旧弊的なままでは、 真に多様性のある未来など訪れないだろう。
  現状を打開するには何が必要なのか。 現役の副学長でもある著者が、「女性の”いない”東大」を 改善するべく 声を上げる! 東大の知られざるジェンダー史をつまびらかにし、 アメリカでの取り組み例も独自取材。 自身の経験や反省も踏まえて、 日本の大学、 そして日本社会のあり方そのものを問い直す覚悟の書。”とある。

 

目次
序章  男だらけの現状
第一章 東大は男が八割
第二章 女性のいない東大キャンパス 戦前
第三章 男のための男の大学 戦後
第四章 アメリカ名門大学の共学化
第五章 東大のあるべき姿
終章

 

感想。
なるほど。力作だ。
そして、読んでいるうちにむかむかと腹が立ってくる。著者に対してではない。今日においても、「男社会」から抜け出せていない日本社会に。
余りにも腹立たしくて、もう、大学受験とか関係ないし、読むのを辞めようかと思ったくらい。東大で起きていたことは前近代的というか、、、、とはいえ、男のせいでもない。女のせいでもない。やはり、社会全体で創り上げてきたのだ。だれも、東大だけを責めることはできない。

 

差別。
この、どうしようもない、社会の沼。。。。

 

序章から第三章までは、ほぼ東大の現実が述べられている。戦前にさかのぼって、もともと、男の「修養」のための大学であり、女がそこで学ぶことは想定されていなかったこと。戦後、GHQの介入ではじめて女性が学べるようになった。積極的に女性を受け入れるようになったわけではなく、、、GHQからの圧力があっての変化だったのだ。戦争に負けていなかったら、女性の教育環境は今よりも悲惨だったのかもしれない・・・。

 

そして、東大入学が許された女性たちだったけれど、肩身のせまい思いをしたという女性、あるいは、ジェンダーなんてまったく気にしなかったという女性。

女性を受け入れた東大は、あくまでも男社会の中に女性が入ってくることをうけいれたのであって、女性のために何かをかえようとしなかった。それが、徐々に変わってきたということ。アメリカも同様に、多様性を受け入れなければ大学としての価値が低下するということに気づいたときから、共学化が進んだ。

 

私がかよった大学のキャンパスは、「農学部」と「工学部」しかなかったので、女性が少ないのは当たり前のように思っていた。いまでは、「生命工学部」とか名前を今風?!にかえて、女性の数も相当増えている。でも、学部の問題だけでなく、やはり、大学そのものが男社会だった。

 

東大では、つい最近まで東大の女性学生を排除するサークルがまかり通っていたのだそうだ。女性は近所の女子大生のみ。

かつて東大生だった友人K女史にこの話をしたら、「そうですよぉ。まぁ、入っていいと言われたからって、そういうサークルに入りたいかっていうと、べつにどうでもいいですけどねぇ、、、」と。

 

「女子大生」という言葉は、「女子大」の学生なのか、「女子」の「大学生」なのか、私の時代(昭和~平成)にもよく理系女子の中で話題になった。まぁ、周囲の男子学生の言い分は、「女子大」の学生なのだ。

 

女性排除のサークルが問題となったのが、留学生の女性が東大に入学したのにサークルに入れないなんて、と嘆いたのがきっかけで、2012年のことだという。信じられるか?!?!2012年だよ!!!!しかも、教授陣も、学生たちも、それを全く問題だと思っていなかった、、、と。そういう大学を卒業した学生、特に男性が、会社で偉くなったら、そりゃ、会社だってあぁなるよね、、、、っておもった。

 

特に、著者が言っているのは、教育の機会格差ということで今ではメディアでも取り上げられることが増えているが、裕福な都会の過程の子どもでないと、東大に入学するのは難しいという現実。そして、多くは、男子校からの東大への入学で、しかも、中高一貫。中学生から大学生まで、ほぼず~~~っと男社会で育った人間が東大卒エリートになっている、という事実。そして、彼らの生活は、稼ぎのいい父親に支えられ、家に変えれば食事、洗濯、なんでもしてくれる母親がいたということ。

 

学生運動のポスターは、「とめてくれるなおっかさん  背中のいちょうが泣いている」(橋本治)だ。1968年、学生運動はお家で洗濯してくれるおっかさんにささえられていた、ともいえる。学生運動に参加した女性は、夜通し「おにぎり」をつくっていたのだとか。。

megureca.hatenablog.com

 

戦後、大学は女性を受け入れた。しかし、積極的に女性のための施策をとることはなく、トイレすらなかった。「平等教育」ではなく、あくまでも「男を基準とした教育」だった。

 

あ、、これは、自衛隊も似たようなものだ。数年前、所用で知り合いの自衛隊幹部の職場にお邪魔したのだけれど、女子トイレがどこだかわからない・・・と言っていた。結果的には、無事に女子トイレを発見!したけど。

 

1950年~60年代の、東大の教授陣が女子学生に対して残した発言が引用されている。本書の中では、発言者の名前もでているけれど、あまりに恥ずかしい発言なので、内容だけ。

 

・「 男と比べると 一般的に教授の言ったことや 読んだ本に書いてあったことは、 よく覚えて 知っているが、 自分の知らないことを調べたり、 自分自身の考えを出すというような点では、 どうしても劣っているように見受けられる」


・「 決まりきった原論的なものであれば良い成績を取るが、 応用的なものとなると必ずしもうまく行かないのが普通である」


・「 だいたい女子 学生というのは、教養科目のような 一般論を学んでいる時には、あまり頭を用いることもないので、成績は帰って男子よりも優秀だが、3、 4年生になって、そろそろ 専門の分野に入ってくると、 男との差はひどくなり卒業の時には大抵下位である。」


・「 東大の女子学生は 一般に点取り虫で成績をひどく気にするし男に負けないようにということをいつも意識している。その結果、女性としては ギスギスした感じのドライな面がどうしても強く現れてくることが多い」

 

こう発言された方々、、、もう、お亡くなりになっているかもしれないけれど、今、この時代に生きていたら、穴があったら入りたい、とおもっていただきたい。はいらないなら、私が後ろから突き落として差し上げます、、、、って感じ。

 

もちろん、著者は、上記のような発言を共感をもって引用しているのではなく、まったくそのようなことはない、という文脈で用いている。

 

もうちょっと時代がさかのぼっても、私立大学も含めて女性に対する拒否感は続いていく。女子は結婚して家庭に入るから寄付金を大学にいれてくれない、とか、、、女性は、そもそも結婚相手を探す目的で大学にきているとか、、、。あれこれ、女性を受け入れない理由を並べ立てる。

 

泣けるほど情けない。その程度の想像力しかない男たちが、日本社会をつくってきた、、、という事実。

ま、それが、時代とともに変わりつつある。でも、大きく遅れをとっているのが東京大学ということなのだろう。

 

1987年に入学し、後にアメリカのジェンダー研究で有名になる吉原真理さんの言葉が刺さる。

” 東大を受験するためにはやはり それなりの努力をしなければいけなかった 一生懸命 たくさんの科目を勉強して難しい 入試に受かって合格した つまり 男子と同じ土俵で勝負して次の土俵に上がることができた そういう自負が意識的にも無意識的にも生まれて メリトクラシー実力主義) 神話を信じてしまった部分があったその神話を受け入れると女性であることを云々するのはかえって女性のためにならない女性は与えられたと表に入り込めるように能力を高めれば良いのだという考えにつながっていく”

 

吉原さんが入学した1987年の総長は、卒業式で、東大生という肩書だけでは生きていけなくなったことを表現するのに、博士か大臣か、の道がなくなっただけでなく、花嫁候補もこないよ、と。そして、
「かくして、神様が東大出に割り当ててくださるのは、 ほぼ東大と同様にダサい某女子大学の卒業生程度である」と。

女子の卒業生もいたはずなのに、この暴言。男女雇用機会均等法が施行されていたにもかかわらず、これだよ・・・。


嘆かわしい 

 

では、、、そうするのか?

著者は、クオーター制など、いわゆるアファーマティブ・アクションの導入を提案している。ジェンダーだけでなく、地方の高校生らへの道を開くという手段として。

 

これは、マイケル・サンデルさんの、いっそくじ引きでもいいんじゃないか、とまでは極端ではないけれど、ちょっと近い。

megureca.hatenablog.com

 

私自身が、見渡せば女一人という環境のなかで社会人の多くの時間を過ごしてきた。メリトクラシ―神話を信じないと、やっていられないと思っていた。女性の敵は女性という言葉があるけれど、敵でも味方でもない。女性でも男性でもない。

 

差別というのは、まちがいなく、一人一人の心の持ちよう、そして行動の問題なのだ。

従来からの習慣だと言っているうちは、自分が差別していることに気が付かない。あるいは、差別されていることにも気が付かない

 

重要なのは、そういう色眼鏡を誰もが欠けているということを自覚することだ。それが、最初の一歩、、だね。

 

女性でも、男性でも、都会の子でも、地方の子でも、本当に平等に学べる機会のある社会が実現するべきだと思う。そこに、私もちょこっと協力している。学び方は色々ある。がんばれ!若者!!

 

そして、先人たちの努力の積み重ねが、今の社会への変化につながってきたということも忘れちゃいけない。何もしてこなかったわけではない。まだまだかもしれないけれど、声をあげ、行動をした人がいたからこそ、今がある。

 

継続は力なり、、、、。