『後藤新平 大震災と帝都復興』  by 越澤明

後藤新平 大震災と帝都復興
越澤明
ちくま新書
2011年11月10日 第一刷発行

 

新渡戸稲造渋沢栄一北里柴三郎、、とこのところ明治から昭和にかけての人々の本を色々読んでいる。同時代、どの人物ともからんで登場するのが後藤新平なのだ。関東大震災のあとの東京を復興させた後藤新平新渡戸稲造を台湾総督時代に技師として呼び寄せたのが後藤新平。重要人物であるのは違いないと思うのだけれど、これまで、あまり「後藤新平」に焦点をあてた本を手にしたことがなかった。

 

後藤新平」で、図書館で検索し、新書で読み良さそうな本書を借りて読んでみた。

 

著者の越澤さんは、1952年生まれ。 東京大学工学部都市工学科卒業、 同大学院 博士課程修了。 現在、 北海道大学大学院教授。 国土交通省 社会資本整備審議会委員、 都市計画・ 歴史的 風土文科会長、 住宅宅地文科会長 として 都市再生特別措置法、景観法、 歴史まちづくり法、 高齢者住まい法などの制定に関わる。
と、本書に書かれている著者紹介によれば、後藤新平の研究家ではなく、都市計画の専門家らしい。

 

表紙には、
” 先人の苦闘を知り、また残してくれた遺産に尊敬の念を示し、 未完に終わったプランを知った上で 今後の首都東京の都市計画・まちづくりを考えたいものである。 東京人にとって 後藤新平という人を持てたことは幸運である。 しかし、 後藤新平 しかいなかったということは実に不幸である。・・・・・”

 

表紙をめくると、
東日本大震災を機に、関東大震災後の帝都復興の稀代のリーダーシップを発揮した後藤新平 が再び 注目され始めた。 なぜ後藤のような 卓越した政治家が出現し、 多彩な人材を総動員して迅速に復旧・ 復興に対処できたのか。 壮大で先見性の高い 帝都復興計画は縮小されたにもかかわらず、 なぜ区画整理を断行できたのか。 都市計画の第一人者が「 日本の都市計画の父」 後藤新平の生涯をたどり、 その功績を明らかにするとともに、 後藤の帝都復興への苦闘が現代に投げかける問題を考える。”
とある。なかなか、骨太そうな本である。

 

目次
序  再評価されるべき後藤新平
第1章 生い立ち   水沢の気風と陪臣の心意気 
第2章 地方の医師から内務省衛生局長に
第3章 台湾総督府の 民政長官
第4章 満鉄の都市計画   大連と長春
第5章 東京の都市問題  都市計画法の制定
第6章 関東大震災と帝都復興計画
第7章 帝都復興事業の遺産
あとがき
参考文献

 

感想。
読みやすい!これは、とても読みやすく、後藤新平について、よくわかる、ような気がする。新書なので、コンパクトに後藤新平の生涯がまとめられていて、かつ、第5章以降は現在の東京がなぜこうなっているのか、、、道路の幅、公園があることの意義、なるほど!の連続。
後藤新平に興味が無ければ、後半の都市計画のところだけでも、東京を知るということで楽しめると思う。

 

越澤さんの著書には、岩波新書の『東京の都市計画』というものもあるらしい。おもしろいかもしれない、ちょっと、興味をそそる。

 

後藤新平は、1957年、岩手県奥州市水沢の出身。東北の片田舎出身。水沢といえば、なんと、あの大谷翔平君の出身地ではないか。。。すごい人を輩出する土地なのかもしれない。

江戸末期、東北の片田舎で生まれ、領主の奥小姓として出仕した。が、明治維新の激変で仙台藩奥羽列藩同盟の中心として厳しい処分を受ける。そして、秩禄は廃止され、全国の武士はリストラされ、失業し、無収入となる。

が、恩人らに見出されて、後藤新平は立身出世への道をあゆむこととなる。

 

地方長官を歴任した安場保和(やすばやすかず)が少年期の後藤を見出す。安場の二女はのちの後藤の妻。

陸軍の軍医総管などを歴任した 石黒忠悳(いしぐろただのり)は、後藤を 地方の医師から中央官庁へと転身させた。

内務省衛生局長 として 日本の医療行政を牽引した 長与千斎(ながよせんさい)は、後藤を内務省で採用し、ドイツ留学、帰国後の衛生局長への就任へ導いた。

また、大物官僚の板谷芳郎も、後藤の能力と人物を率直に評価した。

つまるところ、人間としての魅力があったのだろう。だから、彼らに才能をみいだされ、活躍の場へと導かれ、そこでどんどん才能を発揮していった後藤新平。かっこいなぁ、と思う。

 

北里柴三郎は、内務省衛生局時代の後藤の部下になった。すでにエリート医師となっていた北里は、最初は、後藤の部下になることに抵抗を感じた。北里は後藤の4歳年上。が、その後ドイツのコッホ博士のもとへの留学、帰国後には後藤らの支援を受けるという交流を通じて、二人は長く交流を深めた。

 

後藤は、1890年、2年間のドイツ出張を命じられ、その間に北里のいたコッホ博士の研究室でも学ぶ機会を得た。その間にミュンヘン大学で医学博士を取得するなど、自由闊達な時間をすごし、人脈もひろげる。

 

後藤の人脈づくりは、ドイツ滞在中に知り合った本多誠六(林学者・日比谷公園明治神宮内苑の設計者)が次のように言っている。

 

とにかく、 後藤は、 私ばかりでなく、 あらゆる 一芸一能、 ないし 一癖ある人物を隔意なく近づけ 各人それぞれの長所、持ち駒をよく調べておいて、 有事の時に有用な人材をそれとばかり活用し、 利用するという天才的存在であった。 人を使い、 人を動かす 包容力と器量が極めて大きかったようである。”

うん、そういう「人物」、今はなかなかいない・・・。

 

ちなみに本多によれば
大隈重信は、「 例のほら吹き材料に私の新しい話を仕入れる、 いわゆる 1を聞いて10を知るという類」
渋沢栄一は、「 私の話を聞くのは、 すぐそれを事業上に応用するためであって、一切が 具体的な資料によらねばならず、私にとっては甚だ 苦手」”
と。


後藤の貢献として気になるところを覚書。

・ 生涯に大きな 影響 となった 台湾総督府の民政長官としての経験がもたらしたもの
 1. 社会資本整備の実体験(鉄道・築港・上下水道・市区改定など)
 2. 将来にわたり腹心・側近として活躍する重要な人材
 3. 膨大な予算通過のための苦労


・2つの大きな都市計画業績
 1.1919年 都市計画法公布。近代都市計画の法制を導入
 2.1923年の関東大震災後の復興事業

 

コレラや伝染病対策として、上下水道の整備をすすめた。

 

日比谷公園の新設。官庁街の新築だけでなく、公園も確保。

 

電車の敷設。経済の活性化へ。

 

・後藤のさまざまな都市計画に関する法案審議をことごとく潰した大蔵次官、神野勝之助。1919~1922にかけて、実用化へのさまざまな条項が骨抜きにされた。けちんぼ・・・による横やり。国庫補助もえられず、都市の将来像を見据えたトータルな計画、社会資本整備が実施困難となった。

 

東京市は、1920年、大物政治家を第七代東京市長として招聘した。つまり、内務大臣経験者の後藤新平東京市長というのは、内務大臣より格下で、周囲の人は反対したが、後藤はそのポストを引き受けた。そして、東京都をつくった人となったのだ。このとき、後藤が私利私欲の人で、このポストを引き受けていなければ、今の東京はなかった、といっていいかもしれない。

 

・「政治的嫉妬」によって、後藤は度々計画を邪魔される。人気もあって、実力もある後藤のような人物が内閣となるのは、政党指導者にとっては悪夢だった。。。後藤には理解不能な私利私欲の政治的嫉妬は、楽観的な後藤には、それこそ理解不能だった・・。油断していると、邪魔された。
「政治的嫉妬」にまつわる不当な事件について、星製薬の事件がある。ノンフィクションが星一(星製薬創立者)の子・星新一の『人民は弱し、官吏は強し』、だそうだ。星新一がそんな本を書いていたとは、、、ちょっと気になる。いつか、読んでみよう。

 

復興小学校。欧米であれば、教会と広場がコミュニティの中心となるが、日本では小学校と小公園をセットとして防災拠点とした。 

 

なかなかよい一冊だった。明治から昭和、そして戦後にかけての日本の激動の時代をけん引した人々の話は、刺激的だ。でも、後藤新平は、そんなに多く知られていないのはなぜなんだろうか、、、、結局、本人が著書を残している、あるいは後進が評伝をたくさん書いたとか、、、書物として残っていないと、後世に語り継がれにくいということではなかろうか、、、と思ったりする。本人が亡くなっても、著書は残る。現代の動画ならどうなのだろう???デジタル媒体は、拡張性が高いけれど、玉石混合すぎて本当にいい物なら残るだろうけれど、デバイスがないと視聴することができない。その点、紙の本ならば、無人島でも楽しめる。。。。

 

一方で、後藤新平ボーイスカウトの初代総長であり、男の子の間では有名人物なのだろうか?

 

いずれにせよ、本書で後藤新平に触れられたことはよかったと思う。こういう豪傑な人が活躍できた日本は、ラッキーだったと思う。そういう人物を生み出した水沢、ちょっと興味ある。東京には後藤新平銅像はないけれど、故郷、水沢には銅像があるそうだ。故郷で大事にされて、よかったね。。

 

読書は楽しい。