歴史を変えた人物伝 後藤新平
東京をつくった男
青山佾(やすし)監修
井上正治 まんが
講談社
2023年12月19日 第一刷発行
後藤新平に興味をもったので、図書館で検索したらでてきた本。まんがだと気が付かずに予約して借りたのだけれど、やっぱり、伝記もののまんがはいい。
すでに、『後藤新平 大震災と帝都復興』を読んでいたので、復習のように読めた。
表紙の裏には、主な登場人物が似顔絵付きの相関図で描かれている。
恩人
・阿川光弘:医学の道へ
・安場保和:新平の優秀さを認めて引き立てる
医学界
・長与専斎(ながよせんさい):内務省衛生局長。役人への道をいざなう
・石黒忠悳(ただのり):日清戦争後の検疫責任者に新平を推薦した軍医
・北里柴三郎:内務省後輩、ドイツではコッホ研の先輩
ドイツ留学時代
・ヴィルヘルム2世
・ビスマルク:新平の政治家としての資質を見抜く
・コッホ
陸軍
・児玉源太郎:台湾統治、満鉄で新平を重用
部下
・新渡戸稲造:台湾統治で活躍
・中村是公(よしこと):台湾、満州、東京市と腹心の部下として新平を支える
政界
・板垣退助:岐阜での襲撃事件の時、刺された板垣の治療にあたったのが新平
・岩倉具視:結核療養所の建設を依頼
・伊藤博文:台湾統治に新平を採用
・原敬:同郷。鉄道建設では新平と意見が対立。
・桂太郎:長州・陸軍閥の政治家。新平を起用
・西園寺公望:新平とは対立することが多かった。
・ビアード:アメリカの憲法学者。市政と震災復興の助言をくれた。
・昭和天皇:関東大震災後の新平の復興計画が実現していれは東京大空襲の被害はもっとすくなかったかもしれない、と惜しんだ。
と、これだけの情報でも、十分、頭の整理になる。
監修の青山さんは、明治大学名誉教授。1967年東京都庁入庁。1999~2003年東京都副知事。
もくじ
まんが
第一話 謀叛人の子
第二話 感染症と検疫
第三話 台湾の統治
第四話 満州の開拓
第五話 東京市の改革
第六話 帝都復興
よみもの
西南戦争と自由民権運動
検疫、水際対策
台湾の歴史
日露戦争
シベリア出兵と米騒動
震災復興
長与専斎
北里柴三郎
アヘンとアヘン戦争
満鉄調査部
新平の人柄
行ってみよう(学校、橋、講演、東京都慰霊堂、その他)
感想。
やっぱり、後藤新平すごい。
そして、後藤新平の伝記を追いかけると、日露戦争~関東大震災~日清戦争~その後の歴史がストーリーとしてわかりやすい。
その間、新渡戸稲造との連携、北里柴三郎との連携、教育のためには福沢諭吉とのかかわりあいなど、、、、点と点がどんどんつながる。
関東大震災後の東京を復興させた人、との功績がよく知られているとおもうけれど、実は後藤新平も北里柴三郎と同様に、医学の道のひとなのだ。若くしてその腕をかわれて愛知病院の院長となり、板垣退助が刺された時に、上部の指示をきくことなく駆けつけて命を救った。
水沢出身の大風呂敷男は、その大胆な行動力で、多くのことを成し遂げた。
歯に衣着せない、大胆な物言いも多かった。内閣衛生局で活躍している間に、「相馬事件」で逮捕されてしまう。旧相馬藩の死をめぐる問題で精神鑑定が不当だと発言したことで、金目当ての共謀だと疑われたのだ。尋問されても自分の信念を曲げなかった新平は、のちに無罪になるが半年の獄中生活をおくることとなる。
それでも、めげない。
日清戦争の後、23万人の帰還兵の検疫を見事に実施。相馬事件のために仕事を失っていた新平を起用したのが、陸軍次官・児玉源太郎と、野戦衛生長官・石黒忠悳だった。
この時、新平は検疫終了後に「陸軍検疫部報告書」をまとめる。このレポートは翻訳されて世界各国に寄贈された。
戦争に勝った国はいくらでもあるけれど、このような後始末をきちんと行った日本はすごい!と、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に言わしめた。
新平のレポートによって、日本は衛生国家として世界に認められた。
児玉との縁は、この検疫成功のあと、台湾統治、満鉄、と続く。
台湾では、力による支配ではなく、人びとの生活の向上をめざした統治をおこない、アヘンやゲリラの問題を解決する。
満鉄では、「満鉄10年計画」を策定し、
鉄道敷設
炭鉱開発
港湾整備
農業開発
都市整備
教育学術
と、その計画は多岐にわたり、実行に向けて「満鉄調査部」をつくって現状調査をしたうえで、実行にうつった。
新平の計画で、近代化に大きく貢献したのが、鉄道のレール幅を国際基準に合わせるということ。日本軍がひいた3フィート6インチでは、輸送力に限界がある。そこで、国際基準の4フィート8.5インチへ広げる工事を実行。レールをすべて引き直すのではなく、枕木の長さに余裕のあるところは、外にもう一本のレールをひいて、三線軌条として工事を急いだ。満鉄は、1年で全線広軌化を達成。輸送能力が向上したことで、駅機能の拡張、周辺の整備が進む。
このレール幅の広軌化は、帰国後の1908年、第二次桂太郎内閣で逓信大臣として入閣した際にも計画するのだが、予算が問題だとか、今ある線路の広軌化よりも、地元に線路をのばしたい思惑の政治家に阻まれ、実行がかなわなかった。
日本で、広軌レールが実現するのは、なんと、東京オリンピック前の新幹線敷設までまたねばならなかったのだ・・。
このとき、新平の計画に反対し、計画をつぶしたのが、同郷の原敬、政友会だった。
逓信大臣時代の業績は、
・郵便ポストの木製から鉄製化。わかりやすく赤色
・郵便局での簡易生命保険
・電話の普及
第一次世界大戦終結後、新渡戸稲造と二人で238日間欧米訪歴の旅に出る。
帰国後、当時、汚職事件などで議員が辞職しぼろぼろだった東京市から、新平に市長へとの声があがる。渋沢栄一の要請は断ったが、最後は首相・原敬にいわれて
「日本の首相にそこまで言われて断ったら、水沢のおとこがすたります」
ということで、引き受ける。
新平は、市民ひとりひとりの自治の意識があってこそも東京市自治が完全なものになると演説し、「自治の精神」を説いた。市民の意識向上のため10月1日を「自治記念日」と定めた。現在の「都民の日」である。
1923年9月1日、関東大震災。
新平は、復旧ではなく復興をめざし、40億円の復興計画を打ち立てる。が、政府案は7億円に縮小、最終的には4億円まで削減された。
それでも、新平が計画したことによっていまの東京につながっているものがたくさんある。
・日本橋の魚河岸は、水運・陸運に恵まれた築地へ移転。(いまはさらに移転したけど) 築地が日本一の市場となる。
・鉄筋コンクリート、耐震耐火建築の先駆けとなる同潤会アパート建設。
・大規模道路整備:日比谷通り、晴海通り、靖国通り、、、、環状二号線(2020年完成)
また、1924年には、東京放送局(現在のNHK)総裁となって、ラジオの普及と全国放送網の完成に尽力。
今、NHKラジオで当たり前のように英会話が学習できるのも、後藤新平のおかげなのだ。これって、『ジャパンアズナンバーワン』のなかで、日本の教育普及のすごさとしてあげられていることとつながっている。
1929年、後藤新平は講演のために岡山にむかう夜行列車の中で脳溢血を発症して倒れる。
どんだけ残してくれたんだ!ってほどの活躍ぶり。なのにあまり大きく語られることが無い。それは、大学卒業ではなく、学閥に属していないからか?後藤家は、高野長英の親戚にあたるが、明治維新後は平民となっている。あるいは、東京復興計画で、その巨額の予算で内閣と対立したからか?
昭和天皇が語ったように、もしも、お金をかけていたら、、、戦災はもう少し小さかったかもしれない。
医学の基本が予防にあるように、都市計画も予防保全が大事なのだ。でも、その予算を惜しんでしまうのが人間の性。後藤新平のように長い目で計画を立てられる「人物」が活躍できる社会は、大事だなぁ、と思う。
長い目で、計画しよう。