男はクズと言ったら性差別になるのか
アリアン・シャフヴィシ
井上廣美 訳
柏書房
2024年8月10日 第一刷発行
Arguing For a Better World(2023)
日経新聞、2024年9月28日の書評で紹介されていた本。タイトルが気になったので、図書館で借りてみた。
記事には、
”差別の問題を考える時にまず頭に置かなければならないのは、社会における権力関係で一般的に優位な立場にあるのはどちらか、ということだ。たとえば女性より男性のほうが、少数民族よりも多数派の民族のほうが、同性愛者よりも異性愛者のほうが優位な立場にあることが多い。これを頭に入れずに差別を考えると、混乱したり、おかしな結論が出たり、場合によっては差別の存在そのものを否定してしまったりするようなことにつながりかねない。
この本はそうしたことを考える上で良い手引きになる。序盤ではアファーマティブ・アクション訴訟や非白人のサッカー選手の飲酒運転事件など、時事的な例を出しながら「特権」と「抑圧」がどう働くかについて整理を行い、不正義や不平等について考えるための思考の足場を作ってくれる。以降の章ではポリティカル・コレクトネスやいわゆる「犬笛」、マンスプレイニング、ブラック・ライブズ・マターなど、賛否入り乱れた議論を耳にする機会は多くても真面目に考え始めると混乱してしまうようなことがらをとりあげ、考えるヒントを与えてくれる。
人間に誤りはつきもので、誤りから学ぶのが重要だというポジティブな態度に貫かれているところも良い。著者は哲学者なので哲学がベースのアプローチだが、難しいところはほとんどない。むしろ、ふだんは混乱するだけで終わってしまうような問題が、哲学的に考えることで見通しが良くなるというようなところがたくさんある。正義や倫理について思考を深める学問である哲学の実用性がよくわかる。”
とある。そして、タイトルについては、
”日本語版は原著と全く違う不必要に扇情的なタイトルがついている。”と言っている。
読んでみるとその通り。これは、本書を俗的なイメージに貶めている感じが、否めない。もっと、哲学的な一冊だ。原題は、『Arguing For a Better World』である。なんで、こんなタイトルのしたのかなぁ。。。
著者のアリアン・シャフヴィシは、クルド系イギリス人の作家で哲学者。ランカシャーとエッセクスで育ち、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学で天体物理学と哲学を学ぶ。現在はブライトン・アンド・サセックス・メディカル・スクールで応用哲学の講師を務めながら、主としてジェンダー、人種、移民、健康について研究。
目次
はじめに 思考のプロセスを見せよう
第1章 白人に向かって 人種差別的な言動を取れるか
第2章 ポリティカルコレクトネスは行き過ぎたか
第3章 犬笛は何が問題か
第4章 男はクズと言ったら 性差別になるのか
第5章 オールライヴズ マターの方が正しいのか
第6章 私たちは誰を信じるべきか
第7章 マンスプレイヤーはどこから水を得るのか
第8章 誰がキャンセルしているのか
第9章 構造的不正義は私たちの責任なのか
結び 一番近くにあるバリケード
感想。
うっ。。。ちょっと、私には、難しいかも・・・。
これは、ただ単に差別についての話ではない。かつ、日本にいると体感しにくい人種差別、マイノリティー差別があることを思い知らされる。
また、若干、、、日本語がわかりにくい。本書を読んでいる途中で、あれ?私の理解がおかしいのか?と思って書評を見直したら、書評の最後には、「日本語訳に問題がある」「校閲不足が多い」とも書かれていた。
う~ん、ちょっと、残念。でも、この内容を原書で読んでみる勇気はないので、本書をさら~っと読み。
はじめにで言っているのは、結論だけを伝えても、その結論に至ったプロセスを説明しないと、理解してもらえない、という話。
本書に出てくる事例は、読んでいると、あぁ、そういう背景か、、、と気づかされることが多々あった。
「Black Lives Matter :ブラック・ライヴズ・マター」については、日本で大きく取り上げられたのは、ジョージ・フロイドが窒息死させられた事件以降だろう。でも、アメリカではもっともっと、その前段があったのだ。もちろん、奴隷問題までさかのぼれば当然だけれど、そうではなくて、2013年、自衛団の男が17歳の少年を射殺した事件に端を発する。その時は、「Our lives matter」だった。そして、警察官による事件は続く。3人の警官が女性を寝室で射殺する事件も起きている。
こういったプロセスを知らずに、誰の命だって大事だ、「All lives matter」と叫ぶことに、正義はあるのか?
ジェンダーの問題も、人種の問題も、特権を持っている側の人間は、被差別側に対するアファーマティブアクションに、異をとなえる権利なんてあるのか?
ジェンダーの話でよく言われるのは、「女性活躍推進で、昇進できていいね」と女性に向かって言う男性の話。自分が下駄をはいて評価されてきているとはおもっていない。アンコンシャスバイアス、無意識の偏見だから、怖い。
タイトルになっている「男はクズ」といった言葉も、権力をもった男性の不当な振舞いに対して女性が言った言葉だとすれば? ただ、それを差別的だと言えるのか?
そういう言葉を発することで、「正義を要求」しているのだとしたら?
本書の中では、これがいい、これは悪い、といった安易な答えが述べられているわけではない。だから、考えさせられる。
私も、タイトルが気になって手にしてしまった口だが、内容はそんな表面的なことではない。いたるところに、考えるためのキューが仕込まれている、、、という感じ。
時々、意味不明なところがあるのは、飛ばし読みしたけれど、大人の社会人としては認識しておくべきことがたくさんある。知らない、は罪だと感じた。
気になったところを覚書。
・「ホワットアバウト主義」 ブラック・ライブズ・マターのような話のときに、あらゆることを包括しすぎて、話の核心を逃れようとする行為。答えは反論が考えられないときに、厄介な問題から離れて、論点をずらす行為。
・第6章 私たちは誰を信じるべきか、という話で、女性科学者の主張が、権威ある科学者の主張を否定するものだったので、受け入れられなかった、という話。これは、、、、あるあるあるある、、、。メンデルの法則で知られる、メンデルだってそうだ。地動説もそうか。従来の説が、権威ある人(あるいは教会等団体)の説であればある程、新参者の意見は信じてもらいにくい。
重要なのは、真実だとわかったとき、それまで否定していた自分の間違いを認めること、のように思う。それができないと、科学者ではないし、嘘つきだ。
また、本章では、スタインベックの『はつかねずみと人間』のレニーの話が出てきた。レニーは、ジョージが言う事なら何でも信じちゃう。でも、それで、、幸せだったかもしれない・・・。
・アリストテレスは、紀元前350年に、女性の方が男性より
「恥知らずだったり、自尊心がなかったり、嘘をいったり、だましたりする」と書いた。その後2500年間の風潮を決めてしまった。
なんてこと!!!!!しらなかった。アリストテレス、そんなこと言ったのか!!けしからん!ではないか・・・。
人は、間違いを犯す生き物、ってことか。
・話し方、発音が信頼性を左右する。
むむむ、、、確かに。
・「マンスプレイニング」:男性が、やたらと女性に物を説明する行為。レベッカ・ソルニットが「私に説明する男たち・・」という記事を書いた後、フェミニストのブロガーたちが使い始めた言葉。
わかる。。。。若いころの私は、うざい・・・と思って無視したりしたかもしれないけれど、最近の私は、だまって聞いている。。。ことがある。だまって聞くのも修辞学の一つ、、、。いや、ちがった、黙って聞いたふりしている、、、か?!まぁ、若い娘ではなくなった今の私に、マンスプレイニングする男性もあまりいないけど・・・。
また、「マンスプレイニング」する男性の前で、メモをとるふりをする女性についても、これも、、わかる。。。会議とか講義とか、メモをすることを褒める文化は、日本でも根強い。キャリアポルノ的自己啓発本だと、「人の話を聞くときはメモをとりましょう。」というのもたくさんある。一生懸命聞いている、フリをしろって。
これも、いかがなものか。メモを取る暇があったら、もっと耳をすまして集中して聞いた方がいい。実は、通訳をするときもそうだ。通訳者がメモを取るのは、忘れてはいけない固有名詞とか数字くらい。時と場合によるけれど、耳をすまして正確に聞くことに集中することの方が大事。そして、大事な言葉は口を動かしてマンブリングするのだ。マンブリングにも、メモと同じくらい、記憶させる効果がある。
と、、、ちょっと、話がそれた・・・・。
・「キャンセル・カルチャー」:社会的に正義とみなされない行為をした人や組織に関わることを、いっさいキャンセルすること。性的暴力で告発された俳優のでている映画をみないとか、CMにでていた商品を買わないとか。社会から追放しようとする動き。古くは、アテナイの「陶片追放」がある。追放したい人の名前を書いた陶片を「オストラコン」といった。英語の「ostracise オストラサイズ」は、ここからきている。
私にとっては、決してやさしい本ではなかったけれど、「優位な立場にあるのはどちらか」、という視点を忘れてはいけない、というのはすごく教訓になった。私は、幸運なことに家族に恵まれ、大学も行かせてもらい、普通に就職もできた。本当の意味でお金に苦労したことが無い。たとえ女性であっても、それだけで「優位な立場」である場合もあるということ。
会社に入ったとき、会社の中での私は「優位な立場」ではなかったと思う。学卒、女性、それだけでバイオテクノロジー系研究者としては就職の窓口も狭かったし、入社後も機会は平等ではなかった。でも、大手企業に就職しただけで、中小企業に比べれば経済的に優位な立場になったのだ。実のところ、サラリーマンの給料は、本人の実力や成果と関係ない。。。また、給料だけでなく、大企業の福利厚生は恵まれている。
著者は、資本主義が嫌いだ、と言っている。私は、資本主義が嫌いじゃない。それも、経済的に、そこそこ優位な立場にいるからかもしれない、、、、と思った。かといって、私が何も努力をしてこなかった訳でもないので、頑張った分はちょっとくらい楽させてもらってもいいじゃないか、、、と思っている自分もいる。
実力も運のうち。。。そういうことを忘れてはいけないのだろう。
「優位な立場にいるのはどちらか」を忘れて、「男はクズ」といった女性を批判するのは違うだろうということ。どんな言葉も、立場によって暴力にもなれば、正義の主張にもなりえる。論点を一般化しすぎると、結局、少数意見が無視されてしまう。
四六時中、聖人君子でいることなんて、私にはできない。大事なのは、こういうことを時々思い出すことかもしれない。
そのために、読書があるんだな。