よみがえる天才 7 北里柴三郎
海堂尊
ちくまプリマー新書
2022年3月10日 初版 第1刷発行
北里柴三郎 を図書館で検索して出てきた本。 海堂さんの本なので面白そうと思って借りてみた。
海堂さんは、 1961年 千葉県生まれ。 医師、作家。 外科医 病院としての経験を生かした医療現場のリアリティあふれる描写で現実社会に起こっている問題を衝くアクチュアルなフィクション 作品を発表し続けている。 作家としてのデビュー作『 チームバチスタの栄光』をはじめ、同シリーズは 累計1000万部を超え 映像化作品多数。Ai( オートクシー・ イメージング= 死亡時画像診断)の概念提唱者で、 関連著書に『 死因不明社会 2018』 がある。
チームバチスタは、私も何作も見た。生化学的な追及が私にとってはおもしろかった。
そんな海堂さんの北里観は、いかなるものか、興味津々。
裏表紙の説明には、
” 西洋化を急ぐ明治日本をコレラ、ペストなど 獰猛な感染症が襲う。
国民の健康維持と社会の衛生は、近代化の重要テーマだった。
恩師、 盟友に恵まれ、 渦巻く批判とも奮闘する。
日本の医学と医療の基盤を作った巨人の足跡をたどる。”
とある。
目次
序章 あなたは 「北里柴三郎」を知っていますか?
1章 生涯の敵・ 伝染病と、 弟妹のコレラ死で遭遇する (1~18歳)
2章 熊本で医学の死 マンスフェルトと出会う (18~22歳)
3章 遅咲きの東大医学生 「同盟社」の頭領となる (23歳~31歳)
4章 内務省衛生局照査科から東京試験場兼務へ (31~33歳)
5章 コッホ四天王 としての快進撃 (34~39歳)
6章 衛生行政の礎、「 伝染病研究所」創設 (40~60歳)
7章 医療の未来を見据え 社会貢献に邁進した晩年 (62~79歳)
細菌発見略史
北里柴三郎 年譜
栄典一覧
参考図書・文献
感想。
面白かった。しかし、これは、子供向けの伝記にはでてこない「大人の事情」が満載!そうか、だから、北里はノーベル賞もとれなかったし、なんだかんだ日の目をみてこなかったのか・・・。なんて、うがってしまう。
子供向けのまんがには、書けなかったんだろうなぁ、、、と思う。
要するに、「とんでもない輩」だったのだ・・・。たしかに、業績はすごい。正しいことを正しいと口に、間違っていることは間違っていると口にした。かつ、晩年には女にも金にも、あまり綺麗だったとはいいがたい。
先日、 渋沢栄一は愛人を何人も作った人間なので、 結婚式のご祝儀に渋沢栄一のお札を入れるのはいかがなものかという話が最近出ているということを聞いた。あほらしぃ、、。それを言ったら、北里だって、、、、伊藤博文だって、女や酒にだらしがなかった。世のなか聖人君子なんてそうはいないだろうに、よくぞそんなこと言うわ、、と思う。くだらなすぎる・・・というか、平和な国だ。
で、この北里の話も興味深い。なんとなく、奥歯にものが詰まったような煮え切らない本が多い中、これはとても面白い。
北里 が 自分が作った 伝染病研究所を追い出されることになったことに対して、 その理由を明確に示している本はこれまで出会ったことがなかった。が、この本には明確に書いてある。
要するに、東大教授であり元同僚の緒方正規の「脚気菌」説を全面否定したことをきっかけに、東大派閥に嫌われたのだ。東大派閥=官僚に近い世界ということだったのだと思う。今でもありそうな話だ・・・。学閥というのか、なんというのか・・・。
また、ノーベル賞を取れなかったのも、なんとなく人格の問題があったのではないか、、、という気がしなくもない。。。。いやいや、、、私は、決して、北里をディスろうという気はない。でも、学会においても嫌われやすいタイプの人がいるのは事実だ。正直すぎる生き方をする人が、みんな怖いのだ。
いまなら、サイコパスと言われるタイプだったかもしれない。。。。
まぁ、なんにしても、北里の人並外れた執着心と行動力。加えて「衛生」を自分の手でなんとかするのだという責任感。やはり、天才だと思う。コッホに入れこみすぎて、サイエンスを見失っていた時期もあったということが人間臭い。北里には、業績もあるけれども、失敗もたくさんあったのだ。そのことを、本書では明確に記してくれている。
いいことだけで飾っていないのが、本書の面白いところだと思う。本当の北里がしりたければ、本書がおすすめかも。
気になったところを覚書。
・海堂さん曰く
” 北里 は東京大学医学部出身でありながら、 母校に反発し続けた 異端児でした。
伝染病研究所創設の際は 文部省案に 逆らい、 結果的にそれを潰してしまいます。 アカデミズムの世界で権勢を誇る東大閥の敵なので、北里の評価は不当に陥れられています。”
・北里の座右の銘(現代語訳)
「 一所懸命がんばれば一生でいつかは成功する。 他人は批判せず苦労に耐えるのが男子である。」
・ 内務省衛生局 に就職する際、 半年 早く入局した後藤新平との給料差にこだわった北里。 後に刎頸の友となる後藤新平と北里との出会いは最悪でお互いにいがみ合っていた。
・コッホとパスツールは、仲が悪かった。パスツールは、「 科学に国境はないが 科学者には祖国がある。学問は国の大小を問わずに自他に別なし。しかれど、学術を研究しその業績を公にし、自分の名とともに国の名誉を世界に輝かす学者は真の愛国者たるなり」と常識的なことを言っている。コッホの方が、ちょっと偏屈で敵も多かったみたい。北里と似ている。
それでも、コッホが「 ニワトリ コレラと炭疽の予防接種」という講演を1881年にした時、58歳のパスツールは、37歳のコッホの手をとって、「 一大進歩ですね」といった。
パスツール、やっぱり偉大だ。
・ 破傷風と ジフテリアは、 血清ができる「分泌毒」。 腸チフスやコレラ は「菌体毒」だったので破傷風のような血清療法はできなかった。
・血清療法を最初に発見・発明したのは北里だが、ベーリングが単独名で論文をだした。そのベーリングが1901年 第1回ノーベル生理学医学賞を受賞。後に、コッホはもと弟子だったベーリングと絶縁。ベーリングは嫌な奴だったのだ。
・ 北里は、留学時代、国際学会の懇親会で容赦なく大学や政府を非難する毒舌を撒き散らした。そして、帰国後に活動できる場がない、、、という窮地に陥る。自業自得。
国を離れているとき、自国の人を悪く言うのは、本当にやめた方がいい。やはり、同胞が同胞の悪口を言っているのを聞くのは、聞くに堪えないし、「おまえがなんぼのもんじゃい」となる。悪口そのものが良くないのは言うまでもないが、「その場にいない同胞」の悪口程、聞く人を不快にするものはない。北里には、そういう配慮が全くなかったのだろう。
これって、よくも悪くも、権威に一番嫌われるタイプ。。。。
・本書の中では、森鴎外の医師としての評価が低い。北里が、緒方の脚気菌説を批判したときも、森は「東大派」的発言をしている。しょせん、軍医。。。。台湾においても、後藤の活躍に比べて、伝染病と脚気の蔓延に対してなすすべもなく呆然としていた。
・コッホは晩年、50歳で20歳の女優と結婚。要職を投げ出して、結核研究も中断。アフリカの熱帯病の研究にすすんだ。が、誤った見解の学会発表など、ぱっとしない。
・明治43年5月「大逆事件」。爆弾製造と明治天皇暗殺計画が発覚。社会主義者の幸徳秋水が逮捕され、無政府主義者と社会主義者が多数検挙された。窮民を顧みなかった日本政府への一撃だった。明治天皇は、窮民施薬救療事業の「済生勅語」を発し、皇室下付金から150万円を拠出した。桂太郎首相はこれを原資として「恩賜財団・済生会」を設立。
・大正4~5年、北里研究所と帝大伝研との間で、ワクチン合戦、成果合戦が行われたが、多くがガセネタで後に誤りとわかる。日本の医学、黒歴史。。。
とまぁ、北里やコッホについての黒歴史な部分も含めて、そりゃ、人間だものそういうこともあるだろう、、という話もあって、とても面白い。
科学者が、他の科学者と意見が対立したときに学会で議論となるのは、ごく普通のことである。だから、北里が緒方の脚気菌説を否定したこと自体はまったく間違っていない。でも、やはり「言い方」とか「やり方」があるのだ。そういう修辞句を学ばない人だったのだろう。だから、敵が多かった。それでも、慕う人も多かった。
いるよなぁ、、こういうリーダー、、、と思った。私は、嫌いじゃない。でも、ずっと一緒にいると疲れちゃうリーダー。
と、そんな一面もある北里であったけれど、今回新1000円札の顔になったのはやはりめでたいことだ。北里一派のみなさん、おめでとうございます。
読書は、楽しい。
そして、こんなぶっちゃけをちゃんと書いてくれた海堂さん、出版したちくまプリマ―新書に拍手!