『殉死』
司馬遼太郎
文春文庫
1978年9月25日 第1刷
1995年 1月20日 第26刷
乃木希典をテーマにした懇話会を前にして、福田さんの『乃木希典』を読み、いたたまれない思いになった。
懇話会仲間の中に、学生時代に本書をよんで乃木希典の間違った人物像を刷り込まれたかもしれない、、、といっていた人がいたので、本書も読んでみた。私の『坂の上の雲』と同様、司馬遼太郎に歴史を刷り込まれたひとは少なくない。でも、たしかに、小説はフィクションだとはいっている・・・。
裏の説明には、
”乃木希典(のぎまれすけ)―日露戦争で苦闘したこの第三軍司令官、陸軍大将は、輝ける英雄として称えられた。戦後は伯爵となり、学習院院長、軍事参議官、宮内省御用掛など、数多くの栄誉を一身にうけた彼が、明治帝の崩御に殉じて、妻とともに自らの命を断ったのはなぜか?“軍神”の内面に迫り、人間像を浮き彫りにした問題作。”
とある。
図書館の本は、かなりの年季が入った文庫本だった。活字は小さい、紙はだいぶ茶色く日焼けしている。なんとも、昭和レトロな感じ。
目次
Ⅰ 要塞
Ⅱ 腹を切ること
感想。
う~~ん、、、壮絶な最後。妻の静子は、、、、どうやって死んだんだろう・・・・。そのことの方が気になってしまう。そして、静子さんを主人公にした本があるなら読んでみたいと思った。乃木希典の生涯は、『乃木希典』での記載事項の、復習という感じ。やはりドイツ留学を経て、まったく違う人になったかのように行動が変わったことが語られている。
『乃木希典』同様に、麻布の乃木神社と旧乃木邸のあたりについての記述から始まる。今でも大事にされているのだから、やはり、愛された人なんだろう。
やっぱり、司馬さんらしく歴史にからめながら、まるでその情景をみたかのように語っている。乃木希典の人生の流れをおうなら、『乃木希典』よりも、『殉死』のほうがかえってわかりやすいかもしれない。ただ、司馬歴史観である、、ということを肝に銘じて。
日露戦争の描写は、『坂の上の雲』での描写と同様だけれど、印象を新たにしたのは、その武器力の違いは、乃木のせいではないし、だれもがベトン(コンクリート)のロシア旅順要塞を、歩兵で攻略することの無謀さをわかっていた。その貧乏くじをひいたのが、乃木希典だったということ。文句も言わず、軍議に順った・・・・。
203高地を攻略してくれという海軍・東郷の度々の依頼を受け付けなかった理由は、やはり、よくわからない。乃木にとって不幸だったのは、参謀の伊地知の無能さか・・・。伊地知が薩摩人でなければ、乃木の対応もちがっていたのか?わからない・・・。
そして、どうにもならなくなってから児玉に助けられる。
また、乃木はよく詩を詠んだ。戦の場でも詩を詠んだ。それを、司馬遼太郎は、
”自分の不運に自分自身が感動できるというのはどういう体質だろうか?”と冷たく突き放している。
乃木は、自分が旅順に到着する前に、長男・勝典(かつすけ)の戦死の公報を東京の留守宅からうける。だが、そのことは、伊地知にもいわなかった。そして、妻には、「自分と、残る保典(二男・やすすけ)の棺が三つそろうまでは勝典の葬儀は出すな」といった。こういった、乃木の行動に対して、司馬さんは、
” 乃木希典は自己美の完成のために絶えず そこへ意識を集中してきた。彼は 軍事技術者よりも自分美の求道者であり、 この「棺が3つならぶまで葬式を出すな」と言ったのは他人への演出ではなく、 自分自身への演出であった。”
と書いている。
こう、書かれてしまうと、自己陶酔型、、、と思ってしまう。たしかに、そういう点もあったかもしれないけど・・・・。
西南戦争で薩摩郡に軍旗をうばわれたときは、まるでそこで死に行くかのように戦場へかけだし、左足を負傷、野戦病院にかつぎこまれたが、脱走。断食して死のうとしていたところを発見されている。
極端なのだ・・・。
そして、ドイツ留学での人格変化。
日露戦争。
「Ⅱ 腹を切ること」では、明治天皇との親密な関係性と、その最後について。 明治帝は嘉永 5年生まれ、乃木より3つ若い。明治3年、 西郷隆盛に勧められて山岡鉄舟を侍従とした帝は、無骨な鉄舟を好んだ。鉄舟も、帝によく仕えた。が、鉄舟が亡くなると、乃木にその武士らしさを見出し、そばにおくようになる。ちょっと、おかしなところはあるけれど、信頼していた。乃木も、帝に仕えることを愛した。
そして、病没した明治帝。
侍従長ですら、非公式ではあるけれど帝の崩御は乃木にだけはそっと報せてやるべきではないか、といったほどの二人の仲だった。
7月30日に、明治帝崩御。
9月13日、大喪の日。乃木希典、自宅で自害。妻の静子は、身辺整理をしているように見える夫に死の影を見ていたかもしれない。でも、まさか・・・。でも、そのまさかが当たってしまった。
その最後の前後の様子が、まるで小説のように描かれている。
「 警視庁警察医による死体検察始末書から推察すれば・・・・・」と、仔細に凶器、刺し方などが、、、、。
読むに堪えない・・・・。
静子の致命傷は、心臓右室を貫いた刃。希典が手伝ってやったとしている。
希典は、軍刀にて、十文字腹に腹を切っさいたがこれのみでは死ねず、介錯人がいないため、軍刀を畳の上あて刃を両手でもってささえ、自らそこに倒れることで咽頭をつらぬいた。
なんてこと・・・・。
本書の中では、最初は静子を道連れにするつもりはなかったのだと書いている。遺言状のあてに静子を含めているし、静子の余生のことも書いていた。だが、直前に、変わった。
午後八時に明治帝の御霊柩がでて、号砲がなったときに、自分は自決すると、午後八時15分前に静子につげた乃木。静子は冷静にこれをきいた。そして、自分も死ぬといった静子の言葉をきいて、であれば、静子を逝かせてやっていから、自分の自決となった。
夫婦でどのような会話があったのかはわからない。
でも、戦争で二人の息子を亡くし、夫が今から15分後に自決しようとしている。止めようがないこともわかっている。これから自分は何のために生きていくのか?
静子さんは、どう思ったのだろうか。。。。
死んではならない、、、、とも、思えなかっただろう。もう、十分頑張ったから、自分も楽になりたい、、くらい思っただろうか。
しかし、強烈すぎる。この強烈さが、現代の人には異様さに思えてしまう。まして、このことを褒め讃えれば、あたかも殉死することを褒め讃えることになってしまう。
命の重さって、、、、って、考えてしまうけれど、少なくとも人生というのはその長さで測るものではない。。。。と思う。
昭和天皇が崩御された時、昭和生まれの私にとっては初めての新しい元号・平成という時代に突入した。当時、まだ大学生だった私には、それがどういう意味をもつことなのか、あまりよく理解していなかった。
明治も大正も、わたしにとっては経験したことのない歴史の時代。でも、これが自分の生きる道って覚悟を決めることができた時代のように見えてくる。
覚悟のないままに生きているのが、戦後生まれの現代人かもしれない。。。
司馬さんは、乃木のことを「自己陶酔型」と言っているが、自己陶酔できるというのは幸せなことかもしれない。使命感をもつとか、天命をしるとか、言い方をかえれば自己陶酔のようなものである。自己陶酔できるものがなくなったとき、ひとは、自由という困難に陥る。
選択肢が豊富にあるということが、幸せなことではあるけれど、人生を難しくしている理由でもあるような気がする。「能力主義」や、そこにつながった「新自由主義」の功罪をふと思う。
なぜ、乃木は殉死したのか。
現代の価値観で、それは間違っているというのは簡単だけれど、そうではなくて、なぜ?を追求することが、日本の歴史を考えることにつながるように思う。
百年前の日本人こと。戦前の日本人のこと。戦後教育で育った世代は、戦前の日本を否定する教育で育ってきたという現実。私たちは、日本のことなのに知らないことがたくさんある。もっと、日本を知りたい、と思う。
いや、知らなくてはいけないと思う。
もっとみんなが生きやすい日本にするためには、もっと自分たちの歴史を知る必要がある。
そして、自分の頭で考えよう。